高木さんの思い出 ねっと陽だまり原稿

2009年01月04日 風の宿

 高木さんに始めてお会いしたのは昭和62年秋だったと思います。
 柏崎がニューメディア・コミュニティ構想の実現に向けて動き出した「熱い季節」、柏崎情報開発学院の秋の学院祭があり、新潟日本電気株式会社高木社長の講演がありました。
 講演の中に「産業の空洞化」と「心の空洞化」という2つの重要な言葉がありました。日本の産業が安価な労働力を求めて海外にシフトし始めた時でもあり、そのことを危惧した「産業の空洞化」は各方面で語られていました。しかし「心の空洞化」は初めてきく言葉だったのです。
 講演会の翌日、柏崎情報開発学院の2階の教室を借りて、我が「パソコン村」がパソコンやパソコン通信、そして幾つかのパッケージソフトなどを展示していたのですが、そのブースに高木さんがヒョツコリ現れたので、私は嬉しくなり夢中で「心の空洞化」とは何か?と聞きました。高木さんがどう説明されたか覚えていませんが、後で「このことについて質問してきたのは君が初めて」と話されたのは今も鮮明に覚えています。高木さんに少し近づけたようで、とても嬉しかったのです。
 今になって考えてみると、日本人の心が虚ろになってきた時代の始まりだったのかも知れません。

 創風システム創業4.5周年記念パーティのメーン・スピーカーをお願いした時も忘れられない思い出です。
 のっけから「石塚はいい加減な男」と持ち上げて?くれたので、次々と続く壇上の祝辞は「俺はもっと悪いとこ知ってるぞ」みたいなスピーチで大爆笑の連続、160名のお客様が腹を抱え涙を流し、まさに抱腹絶倒・前代未聞の楽しい祝賀パーティになりました。今も私達の宝物のような思い出です。

 高木さんが柏崎ロータリークラブの会長に指名された時、私を幹事に選んでくれました。
 当時の新潟日本電気の部下の方達が「副官には石塚がいいだろう」とのアドバイスだったようです。これも私としては嬉しい出来事でした。ただ、事情により高木さんの会長就任が一年早まり、私は後任の幹事を務めることになりましたが・・・。 
 そのロータリークラブが「グルメの会」と称し市内外の美味しいものを楽しんでいた時期がありました。「六宣閣」さんの鯛料理を頂きに行くときは、もうバスの中は子供の遠足のような賑わい。でも高木さんの奥さんが不思議そうな顔してらっしゃる・・・・服装もどこかトロピカルな雰囲気・・・サスガ東京の人はオシャレだなぁ、なんて悪童達はワイワイと飲む事前運動に余念がない。
 六宣閣に入って、奥さんがそっと「ねぇ、タイ料理じゃなくて鯛料理、なのね! 私タイ料理だと思って服装合わせてきたのにぃー!」 この席はタイ(鯛)料理の話で大いに盛り上り、高木さんの奥さんはすっかり我らのマドンナになってしまいました。

 今、考えてみれば、私が45歳で土方からコンピュータ屋になれたのも、ビジネスでNECの特別なご配慮を頂けたのも、1995年12月24日クリスマス・イヴにインターネットを柏崎に接続できたのも、全ては高木さんがニコニコしながら見守っていて貰ったお蔭なんです。
 そうそう、パソコン通信「KISSNET」の運営委員会「日本海倶楽部」の「網元(会長)」として、初期のネットワーク社会の地方での活動を温かく見守っていてくださった時代もありました。

 優しくて厳しくて、何よりも柏崎が大好きな、正に慈父のような人でした。
 今は遥か遠くの空に旅立たれ、心が空洞になったような寂寥感に呆然としています。
 出来ることならば、何時かまた緑の風に乗って柏崎に来られ、貴方を慕う一人ひとりの頬をそっと撫でて行って欲しい、と思う。 「お元気ですか?」って・・・そのことを思うだけで目頭が熱くなってきてしまう。

 そうだ、高木さん、夏の花火を見に来ませんか、桟敷席をとっておきますから・・・みんなで待っていますよ・・・。