鯖石川の春

2015.03.06 風の戯言


 やわらかに柳青める北上の岸辺目に見ゆ泣けと如くに

 鯖石川の堤防の雪が消え、念願の散歩コースが復活した。
 歩いていると、一つ覚えの啄木の歌が蘇る。

 俳句が出てこない。

人が真ん中 学園都市  原稿のメモ

2015.03.03 風の戯言

人が真ん中 柏崎観光

平成九年九月九日、重陽の節句。今年もまた片貝の花火が見られた。幸せだった。
さまざまな人達が一年の様々な思いを込めて花火を打ち上げる。感謝と祈りと叫び。片貝の総鎮守浅原神社への奉納花火と言う祭事の形を守り続けている。
歴史は古く江戸時代の中期から村人たちが手製の花火に熱中し、明治二十四年には三尺玉、そして昭和六十年には世界一と豪語する四尺玉を打ち上げ狂喜乱舞している。一瞬に数着万円の花火を爆散させ、涙を流しながら抱き合っている老齢の少年たち。
そのばかばかしさに惹かれ町に紛れ込んでみると、ここだけ特異な「ラテン系日本人町」の人達の暖かさがうれしい。魅せられて二十数年通い続けている。
きっかけは四尺玉の本田善治さんとの出会いから始まった。昭和五十年代初めの頃小千谷の雪原に熱気球が舞う夢に取り憑(つ)かれ、孤独な空回りをしていた時期があった。
小千谷人の懐の大きさなのだが、やがて声援を送ってくれる人達が出来、当時の星野市長から本田さんに会えとの指示があり片貝を訪ねた。初っぱなから意気投合し時間を忘れて新しい早春の祭りを創る「仕掛け」に熱中した。楽しい思い出である。
一言で言えば本田さんは「すごい人」だった。人口七千の町で「父ちゃん」で通り、ウワバミのように酒を飲み厭(あ)きることなく祭りと花火を語り続けた。だが。私が一番好きなのは戦時中の軍と渡り合い、禁止されていた花火を上げさせ、思い残すことなく戦場に向かったと言う伝説である。彼は自分の事は多くは語らない。目を潤ませながら、誇らしげにその話を教えてくれたのは市役所の若い職員だった。芝らしい人達がいる。
本田さんが亡くなってもう何年になるのだろう。毎年この祭りが来ると彼に会いたくて片貝に引き寄せられる。主のいない家を訪ね。奥さんの「また来たね」の言葉を強請(ゆす)りに行く。この町に暮らす人達のぬくもりが、今も自分には必要なのだろう。

本題に入る。
正直言えば、私は観光と言う言葉はあまり好きではなかった。何か、他人の財布を薄目で覗いているような感触が厭(いや)だった。自分の生活圏を園もゆかりもない人達に踏み荒らされたくないのも一因だったろう。ザイゴモンだからしょうがない。
最近、本気になって「観光」を考え始めている。地域経済にとって重要な「外貨」獲得手段の観光として。
人は何故旅をするのか。
「みやげ」とは何か。最近の答えは晃だ。「人はやはり寂しいのだろう。だから人とのコミュニケーションの糸口として「土産」が有り、心の深いところでの共鳴には同じたびの経験が必要なのだろう」と。
「万里の道を旅し、万巻の書を読んだ者同士だけが真に話し合える」中国にそんな言葉があったようだ。
回れ右して観光の話だけれど、やはり最近になって「最高の観光資源は人」だということに気が付いた。観光にとって「風光明媚」は絶対条件ではない。景色や施設に頼っていては「人」の存在理由がない。自然や組織や建物ではなく、ホスピタビリティあふれる「人が真ん中」でなければ、思いも魂もゴチャマンも通じない時代になっている。現代人は、病み、つかれ、深い癒(いや)しを求めているからだ。傷ついた旅人の心を支えてくれるのは、結局は人の優しさだけなのかもしれない。
組織は人の集団であり、人を繋げるものは不安定な心であり、しつけ糸一本抜けるとバラバラになる。有能な人を「真ん中」にした組織は、そこで働くみんなが活き活きしており、訪れる人の心を癒し、幸せにしてくれる。

実は、俺のこころも傷ついているんだが……、誰か……

不信の構造  2008年原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

原発のメンテナンス現場から沈痛な呻き声が聞こえてきている。震源は友人の会社であってその点は極めて個人的なの話なのだが、同時に地域としても根元的な安全に関する問題が内在している。
 原発のメンテナンス現場で、今何が起きているか聞いていますか。

 プルサーマルの問題も平沼経済産業相が柏崎刈羽原子力発電所を視察し、何となく「国もようやく本腰を入れ始めたか」との感もあり、一件落着が近い雰囲気が漂っている。しかし、刈羽村の住民投票の結果が意味するものとは、大臣が乗り出したから直ちに解決するようなそんな簡単な「不安」ではない。経済にも深く関わる問題だけに、長い間封じられてきた行政と東電と自分自身に対する不信感がマグマのように吹き出したと言っていい。固定化した賛成・反対の相互不信の中で、不毛な討論だけが飛び交い、地域に「不信」が澱のように沈み込んでいる。行政と東電は血の出るような説明をしてきたのか。商工会議所は血の出るような議論の末に「賛成」したのか。我々は自ら納得するまでの情報を集め、勉強したのか。自分自身に照らしてみれば、いずれも「NO!」であったように思う。

 私は先人たちが血尿の末に下した結論に従う。但し、自分の目は失わない。
 この国の技術水準からいえば大きな事故の心配は無いだろうと確信している。ただ私が危惧を感じるのは、マスコミ報道と現場の直向さとのギャップだ。人は病気になり、機械は疲労する。だから医療やメンテナンスが必要となる。治療・保守と事故の区別のない一方的なマスコミの「事故報道」に現場は何時か無力感に陥らないか。仕事への熱意と誠意が失われた時、「システム」は崩壊する。取り返しのつかない惨事が起きなければいいが・・・。  
 その恐れから私は何年も前から原発サイトの「映像による情報公開」をお願いしてきた。その手段としてのCATVの実現を夢見て、自分の非力も省みず何年かの無駄な努力もしてみた。「明るい昼間に、お化けの出た例しはない」と。自ら正しいと信ずる現場のリアルタイム映像は格段の説得力を持つハズである。この情報化の時代に、直接我々に「生のママの映像」で話し掛けることなしに、何故マスコミとの不毛な戦いを続けてきたのか、不思議でならない。

 もうひとつの不安は冒頭の「現場からの呻き声」だ。経済の国際化により「国策」である原子力発電事業所もコストカットが至上命題になっており、あらゆる知恵を絞り「無駄」を省くためにどの企業も死に物狂いの努力を強いられている。しかし、「何が無駄なのか、何がコストカットの対象なのか」と私は思う。大幅なコストダウンを要求されたとき、何をどう合理化し何処をカットするのか。組織にとって一番痛みが少なく、安易な方法は外注費を削ることになる。下請けに選べる道は多くない。しかし、最先端の現場を担当している下請けは実質的な品質保証を強いられながら実働時間は不安定になっている。メンテナンスのサイクルは長くなり、しかも作業は短期間を要求される。仕事が不定期になり実稼動しか下請け賃金の対象にしかならず、高度な技能集団が待機保障もないとしたらどうなるか。ある経営者は空き時間の有効活用で苦悶し、またある経営者は当座の作業員の頭数だけ揃える。経済原則から言えば経営は常に結果責任であり、後者を不誠実とは言い切れない。しかし、誠意ある有能な現場技術者が安心して仕事に打ち込める生活保障体制と評価制度が無いとしたら、そして地域と企業が次世代の優秀な技術者を育てられないとしたら・・・。原発現場の心の空洞化。そのことにより原発のメンテナンス現場で何が起きているか。  

 最小の経費で最大の効果。これは経済原則だ。しかし、安全を守るためのメンテナンス作業が、現場の経費実体を無視したコストカットに晒されているとしたら「安全」には限度がある。必要な経費は削除すべきではない。どうしても経費削除しなければならないとしたら、現場から遠い間接経費からではないのか。現場の技術評価と技術屋の心を無視していたら必ず取り返しのつかない事故が起きる。

 東京という世界最大の都市のために安いコストの電力を提供することに異論はない。しかし、そのコスト削減のために、この土地に生き続けなければならない我々が不安に晒されるとしたら、そのシステムは間違っている。経済とは共同体の全員が僅かな時間の人生を全うできるシステムのハズだ。あえて暴言を吐くならば、柏崎刈羽原子力発電所を地元自治体で接収し、ここに住み続ける企業と技術者で運営し、不安の根源を絶ち、名実ともに運命共同体として孫子の代に伝えてゆくしかないのかも知れない。「信なくば立たず」信なくば、その企業は地域に存在する価値が無い、と思う。

 地域の信頼を呼び寄せるために下記の提案をしたいと思う。

1. 地域技術会社の採用による安全性の確保
2. 映像等による情報の公開
3. 電子入札による物資・サービスの条件付き一般競争入札制の採用

 苦境にも関わらず、与えられた自身の業務に誠実に対処している現場技術者への敬意を込めて、この一文を書いた。御批判を乞う。

ユダの福音書  原稿メモから

2015.03.03 風の戯言

ユダの福音書
石塚 修
「俺は大器晩成型」なんて嘯いているうちに既に晩鐘は鳴っていた。昨年の新年号には「老年よ、大志をいだけ!」なんて駄文を掲載させて頂いた。今年はリターンマッチの機会を頂き、返り討ちになる危険性も高いのだが司馬遼太郎風に気取れば「以下無用のことながら」とまた余計な話を書きたい。
題名を決めて、自分でも慌てている。もちろん私は学者でも宗教家でもないし、まして読書人でもない。興味の赴くままに「衝動的に」本を買い集め背表紙だけ眺めているだけで何と無く心が満ちてくるアンポンタンの本好きでしかない。ただ、乱雑な書棚の中でキリスト教関係の本と仏教に関する本が多くなっている。何を求めているのか自分でも良く判らないのだが・・・。

「ユダの福音書」について知ったのは文春7月号の佐藤優の「21世紀最大の発見、「ユダの福音書」」だった。佐藤優氏については鈴木宗男の外務省不祥事関連で自らの肩書きを「起訴休職中外務事務官」と名乗り「国家の罠」など一連の著作は目を通していたし、同志社大学神学部出身の変り種だとは知っていた。しかし、この記事を見て驚いた。1970年代の後半にエジプト中部の盗掘で発見され、数奇とも奇跡とも思われる経緯を経て現在解読が進められている。現在イスラエル・パレスチナ紛争の元であり、ユダヤ人迫害の裏切り者ユダとされ、

 宗教に興味を持ち出したのは子供の頃だったと思う。農地解放や公職追放など戦後の激動が我が家を襲い、昭和22年母が逝きその後10年の間に父や祖父母がバタバタと死んでいった。特に父は朝まで元気だったのに、小学校に登校したら亡くなったと言う知らせが届いた。こんな状況の中では「人生とは何か」と考え込んでしまう方が当然なのだろう。家は曹洞宗安住寺の檀家総代でもあり、修証義や般若心経に触れる機会が多かった。「生をアキラメ死をアキラムルはこれ仏家一大事の因縁なり」なんじゃこりゃ? 生きていることを諦めれとか? 般若心経にいたっては「色即是空、空即是色・・・」ナニ馬鹿言ってんだ! みたいな感じだったけれど、禅宗の影響はいつも影のように我が身に付いて来ていた。
だから大学の卒論は「ニヒリズム」が主題になったのもその流れの中なのかもしれない。「失われた次代」ヘミングウェイの「日はまた昇る」に能動的虚無主義をこじつけたのも、訳の解らぬままサルトルの実存主義に傾斜したのも、漂流しながらも島影を探し続けていたからなのかも知れない。
 柏崎に戻って兄の事業を手伝い夢中で働き、大酒をかっ食らって「人生とは何か」なんて考える間もなく生きることが正解なのだと言い聞かせてきた。影は消えなかったが、それなりに幸福だった。
 ある時、一つの予感の中で松井孝典の惑星物理学に出会い、自分の中で仏教と哲学と自然科学がドッキングした。丁度息子が送ってきてくれたネイティヴ・アメリカンの口承史「一万年の旅路」が手元にあり、長い旅路の終わりが見え始めたように思えた。宇宙のビックバンから48億年、地球上に生命が生まれて36億年、人類の痕跡が現れて200万年、
人間が農耕を始めて1万年、一部とは言え飢えから開放され個人の夢を追求できる自由を手にしてまだ100年にも満たない。
 梅原猛が日本の基層文化として捉える縄文人の生活宗教は、人はあり世とこの世を行ったり来たりするのだと言う。死んだ爺さんとそっくりの孫が生まれた、あぁ爺さんの生まれ変わりだね、と。地獄も極楽もなく、人は生まれ結婚し子供を育て死んでいく。「谷間に3つの鐘が鳴る」と言う曲はそんな人生を歌い上げているんだ、と俺に教えてくれたのは殺人の経験のある男だった。人は皆何処かで自分の人生に翻弄されている。
 脱線した。爺さんの生まれ変わりなんて生命科学のDNAで説明できるようになった。ただ、体験した人にしか理解できない密教の世界やいろいろな宗教の祈りについては判らない。経験から言えば必死の祈りは自然の天気さえ変える力がある。まだ科学で説明できない分野も多いのだろう。

 玄侑宗久
 テーラワーダ仏教会 アルボムッレ・スマナサーラ
 養老孟司

 ユダの福音書
 1970年代後半中部エジプトで発見 数奇な運命
 新約聖書の福音書 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
 欧米キリスト教文化圏での常識
 エイレナイオス
 キリスト教はイエスを信じることで救済される。信じないものは殲滅する。
 自由主義の愚行権 幸福追求権
 異なる文明、価値観との共存
 
 湿極と干極渇き エルサレムと日本 一神教と多神教 寛容 いわしの頭
 
そろそろ年貢の納め時?、いやいや、よそ様の期待通りに運んでは面白くない。サプライズがあってこそ人生というものだろう。しかし、確実にかつ急激に血迷う体力も失せてきた。ついこの春までは綺麗なねぇちゃんと見れば必ず携帯番号を聞き出していたのに、秋にはもう出家を考えている。なに? 情緒不安定? 

インドの四住期から言えば既に林棲期。人生の基礎を固める学生期(がくしょうき)、家族を養う家住期、そして社会への役目を終えて次世代にバトンタッチをし、静かに人生を振り返る林棲期、やがて乞食期を経て自然に帰る、という。

藍沢南城を語る会  原稿メモより

2015.03.03 風の戯言

平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。
「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る「南条村」は私の大切な宝である。
南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。