降霊会の夜  浅田次郎

2012.03.21 風の戯言


 本の中にドップリ浸かられるようになった。
 少しづつ、健康を取り戻しているのだろう。

 「降霊会の夜」死ぬほど好きな浅田次郎の最新刊
 流れ去った、忘却の彼方に、大切なものを置き去りにしてきたのかも知れない。格好良く言えば、それが人生なんだろうけれど・・・振り返る時間も、勇気もなかった・・・何も残っていないのかも知れない。
 ただあの時代は「頑張れば夢は叶う」「社会の繁栄が個人の幸福を約束する」そんな神話が純粋に信じられていた時代でもあったのだ。

 疲れ切った身体、しなやかさを失った心、連係プレーが出来なくなった脳・・・しばらくの休憩が必要なようだ。

神々のおわします・・・

2012.03.14 風の戯言


 今朝は、春の雪が舞い降りた。

 神々しいほどの風景が広がっている。

 「見残しの塔−周防国五重塔縁起」を感動に浸りながら読み終えた。著者 久木綾子。89歳の著作という。
 文庫本解説で櫻井よしこが書いているように「読むほどに圧倒的な力で迫ってくる」その年でよくぞここまで・・・取材に14年、執筆に4年、推敲に1年・・・。
 失われてしまった「原日本人」の古里に迷い込んだような、そして日常が神々とあった人間の苦悩とそれを受け入れて生きる人達への温かい眼差し・・・古いCDの世界と重なり合って、何とも言えない時間が流れている。

明日は3.11 1周年

2012.03.10 風の戯言


 祇園精舎の鐘の音
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 聖者必衰の断りを表す
 おごれる人も久しからず
 ただ春の世の夢のごとし
 たけき者も遂には滅びぬ
 偏に風の前の塵に同じ

 昨年の3月11日は長岡で会議中だった。
 大きな波のような揺れが続いていた。
 会議そっちのけで情報収集したが、このときはまだ全容が見えず「話のタネ」、会議は続いた。
 ただ、テレビや新聞、雑誌で全貌が見え始めると、イライラが昂じ精神的に不安定になってきた。自分の中に築き上げたものが、大きな音とともに崩れていった。

 夏草の中を南相馬まで出かけたのは、鎮魂もあるが自分を見つめ直す時間が必要だった。判っていたようで、人生の意味が見えなかったのだ。
 瓦礫が山になり、至る所に船が打ち上げられたままになっていた。
 荒れ果てた海岸から、鎮魂の詞を海に捧げて貰い、少し何かが鎮まってきた。人は生きている限り、一生懸命生きなくてはならない。生きていることに何の意味も見いだせなくとも・・・それが生きると言うことなんだろう、と。

 最近は不思議なことが多い。
 ふとした風景に出会うと、自分の気持ちが妙に優しく、懐かしさの籠もった気分にさせられる。以前出会った風景、時間の彼方においてきた感情までが浮かび上がってくる。
 本を読んでいて嗚咽や涙が込み上げてくる・・・そんなことは殆ど無かったのに・・・高齢になって、感情の蓋が破れたか?

 人は生き、そして死ぬ。
 何をせよ、と命じられていたら、まだ生き方もある。
 自分で考え、自分で行い、自分を捨てなければならない。
 自らの使命を、自分だけで良いから、納得しなければならない。矛盾し、バランスのとれない不安定こそが、人の定めなのだろう。

 そして、やがて人は神に近づくのかも知れない・・・。 

真冬のハワイアン

2012.03.07 風の戯言


 真冬の真夜中・・・春は近いのだが・・・夏はまだ遠い。

 フルーレイで南の島の音楽を聴いている。

 なにやら自閉症の治療法みたいな感じもするが・・・「南太平洋」や「チコと鮫」の影響がまだ残っていて、生涯に一度は南の島で暮らしたいと思い焦がれている。

 海は不思議な風景で、一日同じ海を眺めていても飽きることがない。荒浜で、グアムで、バリで、そんな経験がある。

 サマーベッドとパラソルに、ビールと雑誌でもあれば、殆ど天国に近くなる。

 雪に閉じ込められて、本当の痴呆症になったらしい・・・。南無阿弥陀仏・・・・

春のまなざし

2012.03.04 風の戯言


 海が見たくなって、荒浜から椎谷岬を回ってきた。

 まだ寒々とした海にボードを楽しむ輩の姿も見えたけれど、その海の向こうに米山が横たわり、手前に東電の柏崎原発が見える。もうすぐ停止になるのだが・・・。

 日本の大きな曲がり角が近づいている。