春はまだか?

2012.02.19 風の戯言


 自ら誘っているとは言え、酒が続き、アウト!

 もう少し、エネルギーが欲しい。

 知らぬ間に、3月が近づいている。

 もうすぐ、春が来る。

 来週は、「風船一揆」 36回目になる。
 またみんなの顔が見えるかな。

「春よ来い」
  馬御風作詞、
  弘田龍太郎作曲

  春よ来い 早く来い
  あるき始めた みいちゃんが
  赤いはなおの ジョジョはいて
  おんもへ出たいと 待っている

  春よ来い 早く来い
  おうちの前の 桃の木の
  つぼみもみんな ふくらんで
  はよ咲きたいと 待っている

雪の休日

2012.02.12 風の戯言


 近年珍しく豪雪に埋もれている。
 隠居部屋から外を見れば、窓の高さの半分まで雪がある。
 2メートル50センチはありそうだ。
 庭木は全滅だろう。でも何か枝が残っているだろうから、そいつを大事に育てれば、夏の間にまた成長していく。

 久し振りに孫達の顔が見れた。
 この雪の中を、元気な顔を見せに来てくれる。有り難い。

風船一揆 36年

2012.02.11 風の戯言


 大雪の中、小千谷の「風船一揆」が近づいてきた。
 雪国の春を呼ぶ風物詩として多くの人達に愛され、今年は36回目を迎える。
 2月25,6日、今年もまた全国から40機の熱気球が集まり、白い大地と青い空に色鮮やかな花が咲き、会場から大きな歓声と響めきが上がるのだろう。山本山の麓、西中の会場から飛び立った熱気球は、小千谷の街の上空を越え、悠々と長岡や越後平野まで雪の大空を飛び続ける筈だ。
 夜は市内の平沢会場に10機近い熱気球が大きな提灯のように浮かび上がり、会場に設営された多くの屋台には見物客たちの賑やかな話し声が広がり、昼間から陣とったカメラマン達の熱いシャッター音が聞こえてくる。

 小千谷との縁が生まれたのは、神に導かれたような、初期のフライトから始まる。京都大学の「イカロス5号」に続き、日本2番目の気球を目指した「かぐや姫」号が飛行実験を繰り返していた頃、中鯖石のグランドから飛び立った熱気球は北条の山に消えた。探し求めて、やっと操縦者達と出会えたのは東長鳥の山の奥だった。聞けば、燃料が尽きて崖の上にせり出した木の枝に止まり、最後の一炊きで谷の底の藪の中に降りられたという。一つ間違えば日本で最初の死亡事故になっていたとしても不思議はなかった。追跡隊が合流し、プロパンボンベを交代で担ぎ上げ、そこから飛び立てたのは運が良かった、というより神が見守っていてくれたように思える。語るうちに、遠い記憶が蘇ってくる。

 再び大空に浮かび上がった「かぐや姫」は、誇らしく、風に舞い、車で後を追いかける我々は全身を突き抜けるような感動の中で、意味の分からない絶叫を繰り返していた。
熱気球は小千谷市小粟田原の稲刈りが済んだばかりの田圃に降りていた。大勢の人達に囲まれ、照れくさそうにしていた仲間達の顔が今も忘れられない。
 翌年の3月、雪の上を飛びたいという全国の仲間達と「風船一揆」が始まった。
 当時の星野行男市長、4尺玉花火の本田善治さん、市役所の丸山係長、商工会議所や飲食店組合の方達、ライオンズクラブや町内会の方達、多くの人達と夢を語り、「風船一揆」は春を待つ祭りとして大きく育っている。実行委員会を取り仕切るのは朝日木材の金子修一氏で、彼と新潟県内の「越後風船共和国」メンバーがこの大きな大会を支え続けている。
 夜のイベントの後、サンプラザで気球関係者、市長や市内の人達、ツアー客が混じり合い、300人ほどのパーティが夜遅くまで続く。会場では「春よ来い!」の大合唱が沸き上がり、パーテーの帰の人通りの少なくなった町中のあちこちからも春を待つ歌は聞こえてき、雪国の夜は更けていく。

 大雪の中でも、春はもうそこまで来ている。

小諸 懐古園

2012.02.07 風の戯言


 雪に埋もれて、些か「鬱」に傾いてきて、土曜日に会社に出かけ、そのまま長野路を走ってきた。
 雪がないんだもんね・・・。
 小諸で力尽き、「シングル 5、500円」のホテルにオープン前になだれ込んで、ダウン。
 朝気がついたら「懐古園」のトナリ。早速入ってみたが、客は誰も居ない。島崎藤村に痺れていた頃を懐かしみ、散歩。
 冬場の閑散とした庭園を、ドテラみたいなコートを着て歩くのも、洒落者としては少し違和感がある。

 噴水が凍っていた。
 石かと思ったのだが・・・。

久々の晴れ間

2012.02.03 風の戯言


 昨日の夕方は道路の先が見えない地吹雪。
 何年かぶりに、道路脇に車を止め、先が見えるまで待った。
 今日は青空と夕陽が出、八石山は輝いていた。

 1月31日、平成23年度決算で2月から24年度に入った。昨年は早い段階で警戒警報を出していたにも関わらず残念な結果になった。危機管理意識が、社長も社員も本気でなかったためだろう。言葉だけでは伝わらない。
 ピンチはチャンスではあるけれど、血が流れなければ、人は変われない。