菊間和七さんのこと
菊間和七さんが亡くなっていた。
年賀状を戴き、お元気なことを確認したその元日の夜に風呂場で倒れたとのこと。何とも寂しい夜になってしまった。
昭和35年4月から卒業まで高田工業高校建築科3年生の一年間、西城三丁目のお宅で殆ど家族のような下宿生活を送らせて頂いた。貞子おばさんと和憲君伸二君兄弟と菊間さんの親戚の河田君と、俺の甘えすぎかも知れないが、まるで6人家族のように大事にしてもらった。
下宿の窓から晴れた日の雪景色を眺めていて、家業を手伝うことを当然のことのように考えていた人生を、3年生の冬になった突然変更してしまった。俺は大学にゆく。俺は外国にゆく。全く何の関連も無くそう決断して、当然武蔵工業大学の受験は失敗し、進退窮まって、叔父さんの伝を頼って、共産党系出版社の理論社に文字通り転げ込んだ。可否の返事を貰う前に布団と取敢えずの生活用具を送り込んでしまった。営業部長だった菊間喜四郎さんはビックリしていたけれど、兎に角その日から住み込みのバイトと予備校の研数学館通いが始まった。
随分と不義理を繰り返したが、人の運命は分らないもので、先輩の堀内国男に勧められて神奈川大学を受験し、給費生試験は惨憺たるモノながら2ケ月の猛勉強で何とか入学できた。俺の人生の中で死に物狂いで努力したのは多分あの2ケ月だけなのだろう。
理論社の住み込みのバイトは午前中が仕事で午後から予備校、帰ってきて仕事を手伝い、夜は来客のお茶汲みと戸締り夜間警備。来客は多士済々で五味川純平、早乙女勝元、早船ちよさんなどの作家、元全学連の委員長や野坂参三やタカクラテルの子息太郎さんなど、社長の小宮山量平さんの交友の広さを物語るほんとうに多くの人たちが毎晩のように集まり、お茶を取り替えながらその人たちの話を聞くのが何よりも楽しかった。
自転車の荷台に本をいっぱい積んで日販や東販、大阪屋など御茶ノ水の坂を喘いで上り下りした日を久し振りに思い出した。自分でも理由の分らない怒りの中で、サルトルの言う出口なしの絶望感に苛まれ、夢遊病者のように横浜からの密航を企てていた時期も思い出してしまった。
随分と遠くまで来てしまった。
時間って何なんだろう。
菊間和七さんの御冥福を祈りながら・・・。