元南鯖石小学校のコスモス

2010年10月17日 風の戯言


 鯖石街道を走っていたら、旧南鯖石小学校の跡地にコスモスが咲き乱れていた。優しい秋の風に揺れて、懐かしい風景に忘れていた子供の頃を思い出してしまった。
 小学校の頃はいろいろあって、消えてしまった方がいいのかと本気で思うことが何回かあった。思い出したくない過去だけれど、6人の姉や兄に助けられて生きてきたように思う。5歳の子供を残して息絶えようとしている母が姉に手をあわせて「この子を頼む」と言い残して身罷ったという。
 母の思い出といえば、中門寝間の奥の方で枕元に薬を山盛りにして寝ている姿だけ。会話もあったのだろうが、何も覚えていない。全て忘れてしまった。

 親父は戦争中に村長をしていたので「公職追放」になり、仕事がなくなった。「農地解放」でが8百俵も積み上げられていた小作米の「米蔵」は急に寂しくなり、スカスカになった蔵に、闇で買い集めた「セメンシ袋」が山積みになっていた。ヤミで儲けていたようだ。「これからは相場」でと命をハリ、トラックを買い、製材工場を経て、戦後の荒波を鼻歌交じりに乗り切っていった。

 やがて製材工場は大ブームになり、集まる人たちの人間を見る世界になった。
 学校の休みの時は熊みたいな大人たちの酒盛りに加えて貰った。考えたら、まともな子に育つわけがない。。
 冬には雪の中を出猟した人たちを待って、「鉄砲うち仲間」が集って縄文時代のような宴会が始る。

 あるとき、「うさぎ」も「やま鳥・キジ」も皆食ってしまって「酒の肴」がなくなった。ボルテージの上がった宴会は何が始るか見当が付かない。
 食うもんがなくなると、皆親方のところに集まる。「何が食えてぇ」と親父が聞いたら「なんかでっけぇものが食いてぇ」、「デッカイものって何だ?」 「この辺りじゃ ウシ だろう」って、この話は行田の爺さんに聞いた。

 山賊の親玉みたいな俺の親父が「よし、解った、何処そこの家からウシ連れてこい」って。可愛そうなウシは庭の松の木に繋がれ、鉄ハンマーを脳天に振り下ろす者、短刀でウシの首を一瞬で切る者、あっという間に家中に焼肉の煙が広がった。だから、犬なんて何時いなくなるか判らないのだ。
 いやはや本当の山賊時代の生活みたいでバカ楽しかった。酒は殆どが蜜造酒、何時まで続いていたか記憶はないが、みんな元気だった。