言語と境界
「誰かが私に言ったのだ
世界は言葉で出来ていると」 山尾悠子
柴野毅実「言語と境界」こんな巻頭言で始まる。
柴野さんが「遺書」のつもりで書いた「自然科学的理解を超えて」との副題を付けたこの本は素晴らしい、と思う。
全部を読み通していないし、読んだとしても俺の理解を超えているのだろうし、人間が最も人間なのは「言葉」があるからだと考えているからだ。
「サピエンス全史」(これもまだ読み通していない)では、動物の中で、人類の中でホモ・サピエンスだけが唯一生き延びたその要因は「無駄話」が出来たからだ、言っていた。井戸端会議、際限もないお喋りがコミュニケーションのもと、言ってみれば外敵から身を守る情報交換が可能だったからだ、と俺は理解してしまった。
今も、意味不明な女達の会話には降参なのだが・・・。
「言葉」に戻る。
最近、続けていくつかの葬式に参列している。
以前から感じていることだが、仏式の葬式は「あれはなんじゃらほい!」だ。「お経」なるものは「音」であって「言葉」ではない。従って意味が理解できない。それが「有り難い」のかも知れないが、「坊主業界」はこのままでは絶滅する。
仏教は、絶ち難き悩みの中で、それでも生きなくてはならない仏の教えであり、救いで有ったはずだ、と思っていた。
しかし、「言葉」を捨てた仏教に、宗教としての存在価値は消滅する。
般若心経や修證義を、枕元に置くバイブルのように平易な文章にし、迷ったときに常に足下を照らす明かりにして欲しい。