自死という生き方

2008年03月20日 風の戯言


 屋根下の雪だけを残して冬が静かに去ろうとしている。
 今日はお彼岸、春分の日。
 30年前は「風船一揆」を小千谷の早春の風物詩にしたくて夢中で走り回っていた。お彼岸が来れば雪も降り止み、春が近づく、そんな雪国の喜びを白い雪原と青空に向かって大声で叫びたかった・・・遠い遥かな思い出・・・。
 仏教思想と自然現象が何処で結びついたかは知らないけれど、日本だけの習慣だと言う。あの世とこの世を行ったり来たり、ランドール博士の5次元の世界、世俗的解釈が出来るようだ。

 週刊誌の書評に誘われて須原一秀「自死という生き方」を読み始めている。借金苦や失恋、挫折、病苦や鬱病でなく、存分に生きた、何も思い残すことは無い、と言う哲学的死に方もあっていいと、自分でも書きたかったテーマだ。人間は宗教や社会的習慣ではなく、勝利としての自分の死の自由があってもいい、と思っていた。
 人生を十分に生き抜く為に、この手の本は必要なのかもしれない。

 今日は久し振りにパティ・ページの「テネシーワルツ」を繰り返し繰り返し、飽きずに聞きほれていた。65歳になって失恋したわけでも無かろうに、心を掻き毟られ、悶え、今日一日がこの曲を聴く為にあったのかと思うほど感動に浸っている。
 1950年代、アメリカは憧れの的で、日本は貧乏に苦しんでいた。鯖石はまだ縄文時代のような生活で、俺には何も無く、死にたくなるほど退屈な日々の連続。爆弾やロケットを作ったり、電気ショックで魚を気絶させたり、蔵の中を荒らしまわったり・・・退屈しない為にはかなり大変だった。