翔べ、大空へ !

2018年10月30日 風の戯言

「気球作って空飛ばないか」との俺の誘いに、近藤正雄は「わかった、おもしぇねか、やろて!」と即答してきた。
しかし、資料と言えばヨーロッパの草原でカラフルな気球を飛ばしている少年マガジンのグラビア写真しかなかった。

京都大学の学生達が日本初の熱気球「イカロス5号」を北海道の空に浮かべたのは昭和44年年9月28日。
「京大の学生に出来て、俺たち土方やペンキ屋にやれねえことはねえだろう」と日本で2番目の熱気球作りはそんな一言から始まった。

意気込みは凄いが、気球なんて大きな袋に熱い空気を詰め込めば大空を翔べるだろうと、その程度の知識しかなかった。
増えてきた仲間と夜な夜な若葉町の大久保神社に集まり酒を飲み、夢を語り続けた。
夢と仲間と酒があれば未来は拓ける。

京都に「イカロス昇天グループ」を訪ね、電卓2台で楕円方程式と格闘し、兎に角バカでかいテトロンの袋を作ることになった。
だけど、裁断した布の山を前に呆然とした。
縫い方を知らなかったのだ。
見かねた山室の若い女の子が「私が縫ってやる !」と、彼女の2階の部屋を全部占領し完成させてくれた。

ガスバーナーは杉平の鍛冶屋が「こんなもんだろ?」と作ってくれた。

独自設計としては残念ながら3機目、日本気球連盟の登録番号は7番 (現在1600機)になった。

「こどもの日」の大洲小学校での係留実験は失敗し、青果・魚市場の駐車場でようやく成功した。

試験飛行は川西町。気球は田圃に墜落し金子修一が7針縫う怪我をしたが、それが病み付きになり今では日本有数のパイロットになっている。
失敗が夢に火を付けたのだ。

南鯖石小学校を離陸した気球は、米山大橋の手前で藪の中に突っ込み、加納から飛び立った気球は東長鳥の山の中で行方不明になった。
やっと探し当てガスを補充し、気球は再び秋の大空を飛翔し続けた。
「翔べ、翔べ !」我々は車の窓から絶叫し、やがて「かぐや姫」は刈り入れの済んだ小千谷の小粟田原に舞い降りた。

広い雪の上で飛びたい、そんな東京の仲間の夢をきっかけに「風船一揆」が始まり、今では全国から数十機の気球と仲間が集まり、小千谷の早春の風物詩として定着し、来年は43回目を数えることになる。

後期高齢者のバカな思い出話でしかないけど、夢は追いかけ続ければ何とかなるもんだ。

そうだんべ !

柏崎日報 10月2日 掲載分