「酒乱性人生論」補遺
酒は百薬の長、だという。多分、医者の戯言かも知れない。
俺は中学2年の時、兄貴に晩酌の手解きを受けた。
以来酒との縁が切れない。
高校の下宿ではクラスの揉め事は合成酒一本で解決出来た。
浪人時代はアルバイト先の神田の出版社で悪い先輩から夜の新宿に連れ出され、受験勉強どころではなかった。
密航を夢見た横浜の大学時代は、沖中士のバイトでやっと買ったトリスを仲間が来て空にしてくれた。
夢破れて柏崎に帰った時、俺を待っていたのは飲んだくれの群れだった。
加納での新婚家庭は土方や気球の仲間の巣窟になり、畑に建てた「柏崎気球会館」は越後風船共和国や新潟大学や信州大学の気球製作、京都大学探検部が企てた「越佐海峡横断」のアジトに成り果ててしまった。
大学生が50人も泊まり込み、俺はホストとして大量の酒を振る舞った。
彼等に優るものは酒しかなかったからだが、屁理屈を捏ねくり回して飲むと酒は「文化」になる。
俺は彼等に人生を語った。
人生は上を向いて歩く時も有り、時には俯いてしか歩けない時もある。
人生とは何だ。
そして人生如何に生くべきか。
しかし、それでは答えは出ない。
旨い酒を飲む為にどう生きるべきか、問題設定を変えれば3つのことが重要だとわかる。
少しの経済的余裕と、夜を徹して飲める仲間と、尽きることのない話題だ。
それを大切にして生きろと。
動物の中で酒を飲むのは人間だけだ。
宇宙人も酒を飲まない。
まして夜の巷を這いずり回るのは高等生物である人間の証だ。さぁ、飲め !
俺は次第に自分で言っていることの辻褄が合わなくなり、信じられなくなってきたけれど、ここで迷ったら全てが嘘になる。
生きていることの幸せとは何か。
人間は「唯心論」やマルクスの「唯物論」に惑わされてきた。
しかし、未来は「唯酒論」の時代だと。
俺は「酒乱性人生論」を語り続けた。
何かを信じて生きることが大切なのだと。
あれから40年が過ぎた。
時折、ジャカルタで150人のスタッフを抱える「竹の子診療所」の院長が柏崎に遊びに来る。
「いゃー、あの言葉を信じてしまったんだよねー」と。
俺は何処で間違ってしまったのだろうか。
医者は酒の飲み過ぎで頭の毛も脳みそも真っ白だと言う。
「酒は百薬の長」それは正しい。
しかし、量に問題があったのだと。
だがもう「手遅れ」だとも。
もっと早くそう言って欲しかったなぁ・・・
柏崎日報 11月24日(土) 掲載分