唯コミュニケーション論 要約

2006年01月17日 風の戯言

                                            著者 F・ジョーダン
                                            翻訳 石 塚   修

  汝ら仲間外れにされた人間は幸いである。何となれば心の温かさを知るにより。
                                          -聖オサム伝 序章より-

 翻訳者まえがき

 古来、世界の本体を精神に求めたプラトン以来の「唯心論」、物質の根源性を主張するマルクス・ヘーゲルの「唯物論」が哲学の基調になっていた。しかし新しい千年紀を迎え、人類が産業革命を経て初めて到達した「幸福の世紀」の価値観を説明し得る哲学はF・ジョーダンの「唯コミュニケーション論」を於いて他に見あたらない。彼は宇宙系帰化人らしいのだが、本人の記憶が曖昧なので真実の生星は謎のままだ。何処の馬の骨であろうと、我々にとって知ったこっちゃない。
 我々の視野が狭すぎて、原著は一般の人間にとっては一見理解不可能な言葉の羅列でしかないが、「あとがき」で彼が言っているように執筆時酷い酩酊状態で呂律が回らなかったせいであり、あの朦朧としたハイな気分になってみれば解る奴は解るというのは正しい。バカな話だが…世の中そんなモンだ。
 殆ど意味不明な絶叫のような彼の文章を私なりに翻訳してみた。山本七平氏の苦労を再体験するようで何やら楽しそうな予感があった。何しろ翻訳者であり解説者である私には何の責任もないのだから…

第1章 要約すれば

 宇宙人の中で地球上の人間ほど不可解な行動する生物は他に類をみない。私は長い間彼らを観察し続けることにより、殆ど意味不明な行動原理が少しづつ理解できるようになった。人類が誕生し、やがて文化的な生活を始めた数千年前から現在までの、気の遠くなるようなこの間の彼らの行動を説明できるものは唯心論でも唯物論でもない。甚だ疑問なのだが人間の「進歩」と言う概念は唯物史観で説明できるほど単純ではないし、全ての生物は遺伝子の乗り物でしかないとするドーキング博士の遺伝子論や竹田久美子の面白解説は単にスケベ話でしかない。断っておくが「スケベ」とは遺伝子に精神を乗っ取られた地球上の哀れな人間達の事である。成る程人間は頭に性器を埋め込んではいるが、そんな奴らの方が実は多いのだが、世界的な遺産と言われる「源氏物語」も見方に因れば「スケベ物語」なのだが、しかし人間にはそれだけでは説明しきれない行動が多すぎる。それに人間は24時間Hしてるわけじゃないし、新井白石の御母堂みたいに灰になるまで性欲があるわけじゃない。

 御存知のように私は経済学者であり企業人でもあります。みんな半端だけれど…。いわゆる経済人として人間の行動を観察したときに、特に日本人種の海外旅行時のあの喧噪を観察してみると、自分の頭の中がシッチャカメッチャカになってしまう。何故初めて訪れる土地の風景も歴史的な遺跡も見ようとはせずに土産を買いに走るのか? 乏しい財布の中から、隣近所から会社の人達にまで、自分のものは買わずに、土産物を買いまくるのは何故か? 単純に好きな(変な)ものしか買わない自分の性癖からすると卒倒するほど気色悪い。何故自分のためにお金を使わないのか?
 しかし、「土産物研究家」として脳にアルコールを叩き込んでよくよく観察してみると、日本人種の行動原理は他人とのコミュニケーションを希求してのものだと思い当たる。考えてみると、人間は自分の誕生の瞬間を知らないし、この世に生まれた意味も知らない。食べ物を口にし続けなければ活力も生命も消えてしまう危うさの中で、内面の宇宙である自分の「心」も知らぬままに人は生きている。気が付けば身近な人との距離も以外に遠く、広大な砂漠に一人残されたような寂しさに苛まれる。淋しさを癒すものは同じような、心象風景を持つ人達と一体化したコミュニケーションだけ。 それも、触れたかなと思うと直ぐに遠のいてしまう風のような存在。存在と呼ぶにも希薄すぎるその瞬間を、少しでもつなぎ止めておかなければまたあのブラックホールに吸い込まれてしまうようなあの恐怖感。全てはコミュニケーションを求めての行動として説明できるのだ。例えば何も渡さずに正月のハワイの楽しさを語ったら、多分水をぶっかけられてしまうだろう。その前に、何でか知らないが、ハワイのチョコレートでも土産にやればジョンギにでも愛想笑いを浮かべながら話を聞いてくれる。一瞬の優越感。幻の一体感。

 20世紀後半になって情報通信と交通手段が飛躍的に発達し、人は多くの人と接することが多くなった。人生に於ける単位時間あたりの接触する人員数が飛躍的に増えたと言っていい。これは特定の人に接する濃度の希薄化を意味する。家族や学校の崩壊。人は益々孤独になり、孤独に耐えられない不幸な人達がその存在の根源に迫ることなく右往左往している。人は本来孤独な存在なのだが、それに耐えられずに人とのふれあいを求め一体感を確認している。「みなさぁーーん、最高ですかぁー」

第2章 要約したら

 我々は自分たちの棲み家である地球までもが人間の心と同じように以外と傷つき易く脆いものであることを知った。世界が単一の社会に近づき、世界と地域、文明と文化、社会と個人、外的要因と内なるもの。その辺を整理して認識しないと、またまた混乱の世紀を迎えてしまう。それにしても「20世紀の映像」に残されたように、何と過酷な時代を生きてきたのだろうか。意志の疎通を欠いたばかりに、自分の意志を旨く伝えられなかったために、そして一人ひとりがそれぞれの価値観の中で僅かな時間を精一杯に生きていることを理解できずに、人は何と遠い回り道をしてしまっているのだろうか。
 一見不可解な人間の行動原理はただコミュニケーションにある。唯コミュニケーション論と命名した次第である。この人間の弱さをターゲットのして21世紀のビジネスは爆発し続ける予感がする。産業革命に次ぐ情報革命とも呼ばれているものが既にスタートしている。たまごッチ、ピッチ(PHS)、ケータイ、或いはインターネットなど情報(情=心、報=伝える)分野の進展はまだまだ続くだろう。現代に於ける人間存在の危うさと淋しさを知っているものだけが真に理解できる世界なのだ。
 しかし、本来孤高であるべき人の「ブッチホン」なんてのは、あれは何なのだ?

以下次号に続く。(刊行未定)