米百俵と三余堂
何時の世でも教育は大切だ。
教育が人間を作り、職業を育て、地域を築いて行くのだろう。
地域と教育の関わりを見るとき、米百俵と三余堂は面白い対比となる。米百俵は長岡藩校崇徳館があってこその理念だろうし、藍沢南城三余堂は柏崎近郷の農村の、確か南條村は江戸期の天領だったと思うのだが、鄙びた農村のに存在した私塾である。
藩校は御城下の俊英を教育し藩の経営に資する人材を教育したのだろうし、三余堂は農民と言っても地主階級だろうけれど、やがて地の塩になろうと言う人材を育てたのだろう。
幕府の学問が朱子学であれば藩校もそうなのだろうが、私塾は折衷学など自由だったのではないかと思う。だから地域として城下町だったのか、商業都市だったかによりその後の歴史に、特に教育行政に大きな違いが出てきているようだ。
柏崎は近年、経済系大学と工科系大学の2つの大学が存在する町になった。市民は些か戸惑っているようだ。どう付き合ったらいいのか、その歴史がないので分からないのだ。
しかし、かつて江戸末期には現代の新潟大学にも匹敵する南條三余堂があったのだ。俺達はもっとこのことを知り、プライドを取り戻していいと思う。