老年よ、大志を抱け  原稿メモより

2015年03月03日 風の戯言

老年よ、大志を抱け
Old Boys, be ambitious
石塚 修
 老年よ、大志を抱け。老年は自由である。風のように自由だ、と俺は思っている。
子供達は自分の人生を歩き始め、妻には見放された。考えてみれば飯を作らせたり子を産ませたりと随分勝手な使い方をしてきた。だから「もう、嫌だ」と言うのも理解できる。  
しかし、ここで怯んではならない。まして自己嫌悪に陥ったら敵の思う壺だ。
そして、ここからが大事なのだが、健忘症とか耳が遠いとか自己責任に馴染まない神の領域が待っているのだ。此れを戦略的に駆使できれば自由を獲得する日は近い、のだ。

老人は幸せである。少なくとも「幸せだ」と考えるべきだ、と俺は思う。
一応老人の定義を「還暦」とすれば、そろって「戦前」生まれということになる。子供の頃は貧しい殆ど縄文時代のような毎日を送り、やがて輝くような高度成長期を経て今また落日を迎えている。しかし、多難な時代だったとは言え、世界史的にも例のない「幸せな時代」をこの国で生きることが出来た。真面目に努力すれば必ず報われる、そんな時代がそんな国が他の何所にあったのか。前世代は赤紙一枚で努力も才能も未来も全てチャラにさせられ死地に送られた。そんな不条理から比べたらトンでもない幸せな世代なのだろうと思う。
また若い人たちを羨ましいとは思わない。「暗闇」を知らない世代は明るく陰影がない分、人生のヒダ、味わいを知らないのではないかとさえ思うこともある。人生の尺度として比較しようもないが、「夢」を持てたし、プロジェクトXもあった。自らの力で手にした鳥肌の立つような感動を記憶の中にいくつか残している。
今、未来が見えないから不安だと言う。
老人は自由である。いや、自由になれる、と俺は思っている。
リタイヤし初めて本当の人生があるのかもしれない。妻子を養い会社の発展を願い、時には媚を売り時には人を裏切り時には胃袋の裏返るような酒も飲んできた。誰にも本音が言えず、「もっと違う人生」を夢見て流れる雲を眺めていたこともあった。
我々に残された時間はもう少なくなっている。どう考えても、残り僅か50年。そんなにないかも知れないが、元気でさえあればもう一勝負は出来る。車と同じで人間も長持ちするようになった。人生50年が平均寿命80歳になった、とすれば6掛けの人生なのだ。60歳は気持ちも身体も昔で言えば40歳。まだまだ若い、のだ。でもあんまり調子に乗ってこんな話をしていると役人が飛んできて、年金の支給年齢を上げたり老人税を取ろうとしたりする。
子供達にも注意しよう。「可愛いでしよう!」なんて催眠術懸けられて孫をあやしている場合じゃねぇぞ、って言いたいね。孫を預けて夜中まで遊んで財産むしり取ろうってんだから性質が悪い。皺を伸ばし、ダイエットし始めたら女房も完全に敵方に寝返ったと思って間違いない。「気を付けよう、暗い夜道と古女房」

で、結論。老人よ、大志を抱け!
ここまで言えばいくらお人好しでも次の行動は見えてきただろう。そう、財産持って逃げ出すことだ。少しの期間でもいい。精々1週間くらいでいいけど自分が何者でもない、知らない土地で自由に過してみるのもいい。痴呆症と間違えられ、強制送還が落ちかも知れないが、一度自由を味わった心と身体は一味違った精彩を放ち、違った人生を与えてくれるハズだと思う。残り僅かな時間しかないが、黙って風雪に晒してしまうこともないだろう。
人生は不思議だ。願ったことは実現するし、時には天候すら味方をしてくれる。しかし、願わないことは何も実現しない。どんな時にでも前向きに生きる、ってことは素晴らしいことなのかも知れない。

寒くなりました。まだ余震も続きます。お体と奥さんに気をつけて。

健忘症という、個人の責任に属さない神の領域