ユダの福音書  原稿メモから

2015年03月03日 風の戯言

ユダの福音書
石塚 修
「俺は大器晩成型」なんて嘯いているうちに既に晩鐘は鳴っていた。昨年の新年号には「老年よ、大志をいだけ!」なんて駄文を掲載させて頂いた。今年はリターンマッチの機会を頂き、返り討ちになる危険性も高いのだが司馬遼太郎風に気取れば「以下無用のことながら」とまた余計な話を書きたい。
題名を決めて、自分でも慌てている。もちろん私は学者でも宗教家でもないし、まして読書人でもない。興味の赴くままに「衝動的に」本を買い集め背表紙だけ眺めているだけで何と無く心が満ちてくるアンポンタンの本好きでしかない。ただ、乱雑な書棚の中でキリスト教関係の本と仏教に関する本が多くなっている。何を求めているのか自分でも良く判らないのだが・・・。

「ユダの福音書」について知ったのは文春7月号の佐藤優の「21世紀最大の発見、「ユダの福音書」」だった。佐藤優氏については鈴木宗男の外務省不祥事関連で自らの肩書きを「起訴休職中外務事務官」と名乗り「国家の罠」など一連の著作は目を通していたし、同志社大学神学部出身の変り種だとは知っていた。しかし、この記事を見て驚いた。1970年代の後半にエジプト中部の盗掘で発見され、数奇とも奇跡とも思われる経緯を経て現在解読が進められている。現在イスラエル・パレスチナ紛争の元であり、ユダヤ人迫害の裏切り者ユダとされ、

 宗教に興味を持ち出したのは子供の頃だったと思う。農地解放や公職追放など戦後の激動が我が家を襲い、昭和22年母が逝きその後10年の間に父や祖父母がバタバタと死んでいった。特に父は朝まで元気だったのに、小学校に登校したら亡くなったと言う知らせが届いた。こんな状況の中では「人生とは何か」と考え込んでしまう方が当然なのだろう。家は曹洞宗安住寺の檀家総代でもあり、修証義や般若心経に触れる機会が多かった。「生をアキラメ死をアキラムルはこれ仏家一大事の因縁なり」なんじゃこりゃ? 生きていることを諦めれとか? 般若心経にいたっては「色即是空、空即是色・・・」ナニ馬鹿言ってんだ! みたいな感じだったけれど、禅宗の影響はいつも影のように我が身に付いて来ていた。
だから大学の卒論は「ニヒリズム」が主題になったのもその流れの中なのかもしれない。「失われた次代」ヘミングウェイの「日はまた昇る」に能動的虚無主義をこじつけたのも、訳の解らぬままサルトルの実存主義に傾斜したのも、漂流しながらも島影を探し続けていたからなのかも知れない。
 柏崎に戻って兄の事業を手伝い夢中で働き、大酒をかっ食らって「人生とは何か」なんて考える間もなく生きることが正解なのだと言い聞かせてきた。影は消えなかったが、それなりに幸福だった。
 ある時、一つの予感の中で松井孝典の惑星物理学に出会い、自分の中で仏教と哲学と自然科学がドッキングした。丁度息子が送ってきてくれたネイティヴ・アメリカンの口承史「一万年の旅路」が手元にあり、長い旅路の終わりが見え始めたように思えた。宇宙のビックバンから48億年、地球上に生命が生まれて36億年、人類の痕跡が現れて200万年、
人間が農耕を始めて1万年、一部とは言え飢えから開放され個人の夢を追求できる自由を手にしてまだ100年にも満たない。
 梅原猛が日本の基層文化として捉える縄文人の生活宗教は、人はあり世とこの世を行ったり来たりするのだと言う。死んだ爺さんとそっくりの孫が生まれた、あぁ爺さんの生まれ変わりだね、と。地獄も極楽もなく、人は生まれ結婚し子供を育て死んでいく。「谷間に3つの鐘が鳴る」と言う曲はそんな人生を歌い上げているんだ、と俺に教えてくれたのは殺人の経験のある男だった。人は皆何処かで自分の人生に翻弄されている。
 脱線した。爺さんの生まれ変わりなんて生命科学のDNAで説明できるようになった。ただ、体験した人にしか理解できない密教の世界やいろいろな宗教の祈りについては判らない。経験から言えば必死の祈りは自然の天気さえ変える力がある。まだ科学で説明できない分野も多いのだろう。

 玄侑宗久
 テーラワーダ仏教会 アルボムッレ・スマナサーラ
 養老孟司

 ユダの福音書
 1970年代後半中部エジプトで発見 数奇な運命
 新約聖書の福音書 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
 欧米キリスト教文化圏での常識
 エイレナイオス
 キリスト教はイエスを信じることで救済される。信じないものは殲滅する。
 自由主義の愚行権 幸福追求権
 異なる文明、価値観との共存
 
 湿極と干極渇き エルサレムと日本 一神教と多神教 寛容 いわしの頭
 
そろそろ年貢の納め時?、いやいや、よそ様の期待通りに運んでは面白くない。サプライズがあってこそ人生というものだろう。しかし、確実にかつ急激に血迷う体力も失せてきた。ついこの春までは綺麗なねぇちゃんと見れば必ず携帯番号を聞き出していたのに、秋にはもう出家を考えている。なに? 情緒不安定? 

インドの四住期から言えば既に林棲期。人生の基礎を固める学生期(がくしょうき)、家族を養う家住期、そして社会への役目を終えて次世代にバトンタッチをし、静かに人生を振り返る林棲期、やがて乞食期を経て自然に帰る、という。