藍沢南城 三余堂

2006年01月18日 風の宿

 
                                     鯖石郷土史クラブ 会員 石塚 修

 平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。
 しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。
 午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。

 「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。
 700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。

 近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る漢詩「南条村」は私の大切な宝である。

 南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。

Boston

2006年01月16日 風の宿

                                                 石塚 千恵

 1999年3月6日、私がボストンにはじめて来た時、ここはまだ雪が降っていた。新潟に降るような湿気の多いベタベタしたものではなく、それは綺麗なさらさらのパウダースノウ!空港を降りたときの肌を刺すような寒さは未だに忘れられない。迎えに来てくれていた車に乗りこんでからも10分以上は震えがとまらず、この寒さの中で生活できるのかと気が遠くなった。
 そして緊張しながらついたホームステイ先のマザーは金髪碧眼のおばあちゃん。体もリアクションも大きく、典型的なアメリカ人であった。ちょうどその日はマザーの息子の一人の誕生日でお家はとてもにぎやかで、ホームパーティなんてさすがアメリカ!!と感動したものである。

 とにかく私は英語が全くできなかった。もともと英語が好きで留学しようとしたわけじゃない。高校の時なんて268人中267番の成績をとったこともあるくらい。(親にはさすがに言えなかった。)

 高校生の時、私は自分が何になりたいのかよくわからなかった。目的がないから受験勉強にも身が入らない。まだ17やそこらで自分の将来を的確に見出すなんて容易なことじゃない。進路調査はどんどん進んで行くし、大学を決めるべき時も迫ってくる。結局私は中国語に少し興味があったし、指定校推薦で簡単に入れるからと地元の4年生大学に進むことにした。

 大学生なんて名ばかりで、学校なんてほとんど行ってなかったようなものである。毎日遊び放題で夢もなく、その頃は周りのトラブルに巻き込まれることも多くて私は精神的にとても疲れていたと思う。

 冷静に自分を見つめなおした時、入学してから成長したと言えるものがひとつもなかった。このまま大学を出て何か得られるものがあるのかと考え、退学を決心したのが去年の夏の終わりだった。高校の指定校で入った学校だし、親もPTA関係でかなり大学と接していたので言い出すのはとても勇気がいったけれど、両親ともすんなりと私が第2の道を踏み出す事を賛成してくれた。
 この学歴社会の中でせっかくの大卒の肩書きをなくすというのに。

 私は柏崎で生まれ育ち、この小さい平和な街の外で生活したことがなかったので自分の価値観の狭さにいつも怯えていたし、東京に出て行った友達にコンプレックスも持っていた。そして私が考えた事は一番辛いであろう環境に自分をぶち込むことだった。私にとってそれが英語圏の国で生活する事であり、私の留学の動機である。

 こっちへ来てから3ヶ月、アメリカ人の家庭にホームステイをしていた。ホストマザーは敬謙なクリスチャンでとても優しいおばあちゃんだった。夕食の前のお祈りも毎週日曜の朝の教会通いも私にはすべて初めての経験。ボストンのダウンタウンから少し離れたその街は、白人のお年寄りばかりで静かなところだった。サイレンが鳴り響くとしたら、隣りのおじいちゃんが倒れた時くらいだろうか。

 今はボストンでも割と治安の悪い地域に住んでいて、周りには黒人しか見当たらない。歩いているとよく黒人の10代の男の子達にからかわれたりする。友達にはかつあげされそうになった子もいるし、石を投げられた子もいる。彼らの長い白人からの差別のはけ口が私達に向いているとしか思えなくて、一時期は異様な程の敵対心や嫌悪感を持ったりもした。友達になってしまえば彼らはとても紳士的で優しいのだけど。

 私は日本に住んでいる頃は人種差別なんて真剣に考えもしなかったし、その言葉は黒人の人達だけに向けられるものだと思っていた。そしてこの先進国アメリカに未だにその差別があるなんて思いもしなかったものだ。白人の下に黒人、その下にアジア人という考えの人も少なくはない。とにかく想像以上に同じ人種同士の連結が固い。それがいいことなのかどうかはわからないけど。

 アメリカでの日本の印象と言えば”寿司”と”チキン照り焼き”ぐらいなものである。日本食の評価は驚くほど高いが、その他についてはあんまり・・・といった感じだ。一部の人達の間では日本のアニメが人気ではあるが。恐らく日本の首相が今は誰なのかなんて気にしてる人はあまりいないだろう。

 英語は日本語に比べて語数が少ない。日本語で書いた文章を英訳しようとすると適当な言葉が見つからない場合が多い。平仮名、片仮名、漢字と3種類の文字、しかも漢字にいたってはいろんな読み方もある。日本語って難しいんだな・・・と改めて実感している。日本人は一つの言葉をいろんな言い回しやニュアンスで表現できるが英語にはそれがない。
 彼らはストレートなモノの言い方しかないし、自分の感情もまっすぐに表現する。司馬遼太郎さんが本の中で”日本人は察する力が強く、欧米人にはそれがない”と言っていたがまさにその通りだと思う。言葉の裏がないので、変に勘ぐらなくて言い分つきあいは楽だが、言わなくても気がついて欲しい時なんかは期待しても無駄だ。
 半年通った語学学校を卒業する時、私は思わず感情が高ぶって泣いてしまった。先生たちは口々に「心配しなくていいよ、大丈夫だから。」と声をかけてきた。別に私は心配して泣いていたわけではないのに。
 さらには南米から来た友達が不思議そうに私の顔を覗きこみ、「なんで泣いてるの?」と単刀直入に聞いてきた。クラスメイトの日本人の女の子はもらい泣きをしてしまい、彼女もまた聞かれていた。そして最後にはみんな肩をすくめて「日本人て変なの。」

 確かに、金縛りというのは他の国にはないらしい。モウコハンがアジア人だけというのも私は知らなくて驚いたのだが、(だから欧米人に「まだケツが青いな。」なんて言ってもかれらには???という感じ) 金縛りは他のアジアの国にもないらしい。私達にとって幽霊を見たなんてゆうのはよく聞く話だが、彼らにはポルターガイストのほうがよくあるらしい。ゴーストを見たことがあるなんて言ったら鼻で笑われるだろう。
 でも私は舞い散る枯葉を綺麗と感じられる心を持てた日本の文化に感謝するけれど。

 違う土地で生活することによって、柏崎の良いところがどんどん見えてきた。
 今は佐渡島がぽっかり浮いてる海や友達やお気に入り喫茶店が恋しくてたまらない。でも帰る場所があるからこそ、私は異国の土地でがんばれているのだと思う。今年の新潟は暖冬だと聞いた。私はボストンで札幌並みの寒さを経験することになる。
 来年の日本海からの風なんて私の敵じゃなくなるはずだ。

痔鎮祭

風の宿

                                          風派同盟 祭酒 石塚 修

 別に自慢するほどのことではないが、俺、痔を切った。
 術後2年近くを経過し、多少「緩み」の嫌いは残るが概して言えば快適である。鉛を背負ったような肩こりも無くなったし、褌が汚れることもなくなった。もっとも、肩こりの原因は歯の噛み合わせ不良でもあったらしいのだが・・・年の初めにケツを治し年末に歯を治療して、なにか「キセル」のような一年だった。それは兎も角、夏のゴルフ場で尻から脳天に突き抜けるような痛さもなくなったし、電車の中でよそ様に理解不能な顔の歪みを見せることもなくなった。それがケツの為になるからと、会議中に肛門括約筋の運動する秘かな楽しみも今は遠い思い出になっている。
 以下、私の拙い「闘痔記」である。食前の方は食後30分を経過してからにして欲しい。読みたければ、の話だが・・・。

 私が痔主なったのはかれこれ30年くらい前のことになる。全て歴史の始まりは妖しげな伝説と欺瞞に満ちていて、正確には何時に始まったのかは定かではない。多少の存在感から、次第に強烈な自己主張を繰り返すようになり、やがて「お痔さん」はエラクなつてしまった。イボ痔で誕生し、キレ痔に成長し、やがて痔瘻様におなりになる長い間、俺は常に邪魔者扱いし労りの声一つ掛けてやらなかったようだ。「生涯の腐れ縁」、何やら匂い立つような言葉だが痔は文字通りの(しかし、まぁ誰が考えた文字なんだろうね)死ぬまで治らない病と覚悟はしていた。一病息災と言う、まぁそれも結構じゃないか、と。

 しかし、テレビを見ながら馬鹿笑いしている私の顔が、突如夜叉に変化する。その不可解な表情の変化に疲れ果てた妻は俺の病院送りを企み始めた。支離滅裂な亭主を動かす最後の手段とばかり、行兼の兄貴に直訴に行った。会社経営をしていたら入院なんてそんなに簡単なことじゃない。あれこれ言い逃れをする弟に兄は一族の長者としての威厳でボソッと言った。「放っておくと人工肛門だぞ」。この一言は電撃的衝撃的決定的な説得力があった。その言葉の恐怖感に錯乱し、「俺のケツに真鍮のバルブが着く?」 建設業経験者として滅法にリアルなイメージが狂乱に拍車を掛け、前後のことを考える余裕もなく長岡に走った。
 
 私が「ウンチ恐怖症候群病棟」と呼ぶその病院は個人経営としては大きく、当時76歳の院長自ら陣頭指揮する「肛門科」は地域の信頼を集め、待合室はいつも患者で混み合っていた。主治医(主痔医?)の紹介状を手渡し、神妙な気持ちで診察に入った。型通りの問診と診察の後、いきなり「立派な痔だねぇ」とケツに響くような大きな声で院長は言った。思わず落ち着きを失ってしまったが、まぁ出来れば小声で話して貰いたい内容なのだ、と俺は思う。何十年も人のケツを診つづけてきた医者に「痔有党」独特の面映ゆさを忖度するよう求めちゃいけないのだろう。「おい先生、この世の中で俺様のケツ見た奴ぁ、お前ぇさんがたったの二人目だ」俺は内心で伝法な啖呵を切り、覚悟を決めた。断っておくが一人目は母親のハズだ。

 「名医」とは老先生のような人を言うのだろう。痔状を丁寧に診察し、手術の難しさを説明し、自分の人生を賭けた職業にまつわる爽やかな自慢話もしながら患者を安心させて手術台にあげる。お年を考えてかさすがに執刀はしないが、全幅の信頼を寄せた若い先生に付きっきりで手術に立ち会っている。半身麻酔で、遠くで工事しているような振動だけが伝わってくる。モニターで手術の様子を見させて欲しいと懇願したが、いくら名医でもそんなバカな患者には付き合っていられないようだった。
 手術は簡単にすんだ。しかし、本当は簡単ではないのだろう。考えてみればクソを千切る重要な役目の肛門筋にメスを入れるのだから、間違えば開き放しになる。人生の幸運と不運の分かれ目は至る所にある。
手術翌日には御飯を食べ、風呂にも入った。些か驚いたがその方が傷の治りも早いとのこと。とは言え飯を食えばウンチは出る。その出口は「生キズ」なのだから当然イタイのだ。痛いのなんのって目から涙、鼻から洟汁、口からヨダレ、トイレで何度か失神しそうになった。しかし、一歩廊下に出れば何故かお互いに目を会わさぬようにしてのそぞろ歩き。お互い背中に同病相あざ笑う視線を感じている。「ウンチ恐怖症候群病棟」はいつもそんな奇妙な明るさに包まれていた。

 除夜の鐘を病院で聞き、元日はベットで家族と新年を祝い、2日に退院した。年末年始を病院で過ごす貴重な体験だったが、時にはこんな経験も良いもんだ。何事かと見舞いに来てくれた人達も痔ネタで盛り上がり、ケツから血が出るほど笑わせておいて「おだい痔に」なんて下らぬ駄洒落で帰って行く。他の病人には申し訳ないような、笑い話のような入院ではあった。
 後日談だが、保険の見舞金が下りたけれど私の痛み料は雀の涙。悔しかったので社員全員で一晩「じょんのび村」で飲んで使い果たした。「俺のケツが稼いだ金だ、遠慮しないでやってくれ!」

 入り口と出口の差でしかないが、口はグルメを味わったり、人と話したり、また時には意外なお役も受け持つが、出口は日々クソを捻り出すだけで何の不平も言わず一生日陰者の身で甘んじている。感謝の意味もあり、傷も癒えた己が肛門をデジカメで撮ってみた。何と神秘的な、何と可愛いい、何といじらしいお姿なのだろう!

 悪友達が退院祝いを企画してくれ、名付けて「痔鎮祭」。40日振りの酒が心地よく、治りかけのケツが歓喜の悲鳴をあげていた。

 健康は何にも勝る宝です。向寒の折、御痔愛下さりませ。

老年よ、大志をいだけ!

風の宿

老年よ、大志をいだけ!
Old Boys, be ambitious
                                         風派同盟 祭酒  石塚 修

 子供達は自分の人生を歩き始め、妻には見放された。考えてみれば飯を作らせたり、子を産ませたりと随分勝手なことをやってきた。だから今更なのだが・・・

 何時の間にか「還暦」を超えていた。いつまでも「アンチャ」だと思っていたが、そうもいかないらしい。この俺が「高齢者」?! 冗談じゃない!
今更ながらなのだが、60年と言う時の流れの激しさに呆然とする。微かな敗戦の衝撃の記憶、集団就職で故郷を離れてゆく「柿の木坂」のような友人達との別れ、安保闘争や学園紛争、日本列島改造論、バブルとその終焉、失われた10年・・・・。
 しかし、この60年は多難な時代だったとは言え、世界史的にも例のない「幸せな時代」だったのではないかと思う。夢を追求できる自由があり、真面目に努力すれば報われる、そんな時代が、そんな国が他の何所にあったのだろうか。
 親の世代は赤紙一枚で、営々とした努力も才能も未来も全てチャラにさせられ死地に送られた。そんな不条理から比べたらとんでもなく幸せな世代なのだろうと思う。
 また若い人たちを羨ましいとは思わない。幸福の尺度として比較しようもないが、「暗闇」を知らない世代は明るく陰影がない分、人生の深い味わいを知らないのではないかとさえ思うこともある。
 我らの時代には「夢」もあったし、プロジェクトXもあった。自らの力で手にした鳥肌の立つような感動を記憶の中にいくつか残している。
 幸か不幸か、俺はまだ戦場に居る。45歳で建設業からIT業界に飛び込んで20年近くになり、この間の情報環境の変化には戦慄さえ覚える。しかしまだ変化は終わったわけではない。むしろこれからだと思っている。味気ないと思われているデジタルの世界も、コンピューターの性能、利用技術、通信速度等の更なる革新により、多分、よりもっとアナログ世界に、言い換えればもっと人間に近づいてくるはずだ。
 人間にこんな化け物みたいな電子頭脳を与え神は人間に何をせよと言うのか、何時もそんな疑問をもち続けてきた。決して殺戮の為だけではなかろう、と。しかしもうすぐ、きっと素晴らしい答えが出て来るはずだ。そのことが楽しみであり、この業界に身を置かせて貰える事が何より嬉しい。
 動物的な感だけを頼り生きてきたが、情報が多すぎれば時代に流され、少なすぎれば置いて行かれる。本質を見分ける力が必要なのだろうが、それとまたビジネスの季節を判断するのはもっと難しい。しかも風の変化の兆しを人に伝えるのは、これは至難の業に近い。思案し、迷い、堂々巡りの中で人生の時は確実に消耗している。

 時折、何か大きな忘れ物をしてきたよう不安に襲われる。俺はこのままで良いのか、と。
 やがて老兵は消え去る時期が来る。ボロ屑になるまで頑張るのも一つの美学だが、リタイヤし初めて本当の人生があるのかもしれない。家族を養うためでなく、会社の繁栄の為でなく、地域のためでなく、自分のためだけの人生があるのかもしれない。
 残された時間はもう少なくなっている。しかし、「健康優良爺」でさえあれば、もう一勝負は出来るビミョーな時間なのではないか。60歳は気持ちも、身体も昔で言えば40歳台。まだまだ若いのだ。「うっ、ふふふ」なのだと、世間様にもう一泡吹かせて、あ、いや、もう少し人生の味付けをしたいものと不埒なことも考えている。

 老年よ、大志をいだけ! なのだ。
 老年は自由である。いや、自由になれる、と俺は思っている。試しに幾らかの財産持って現状から逃げ出してみるのも一興かも知れない。少しの間でいい、自分が何者でもない縁もゆかりもない土地で自由に過してみるのはどうだろうか。痴呆症と間違えられ、強制送還がオチかも知れないが、一度自由を味わった心と身体は一味違った精彩を放ち、違った老後を与えてくれるハズだと思う。
 人生は不思議だ。願ったことは実現するし、時には天候すら味方をしてくれることもある。しかし、願わないことは何も実現しない。どんな時にでも前向きに生きる、ってことは素晴らしいことなのかも知れない。

 バブルの崩壊以降年金など今後の経済不安が増している。だけど「お金」が無ければ何も出来ないと言うのは寂しい話だと思う。お金がないから空想が膨らみ、夢が生まれ、実現する為の努力が楽しくなり、一杯の酒に友の輪が広がり、人生にオーロラが輝くのだとも思う。
 考え方次第で人生は如何様にもなる。「感情」と「心」の違いに気がつけば簡単なことだ。そして夢が不思議なエネルギーを生み出すことも。だからどんな夢でもいい。読み残した本を読破すること。人生の意義を考え直してみること。旅の空で新しい出会いを楽しむこと。地域のために働くこと。新事業にチャレンジすること。幾らでもある。
 成功する必要はないし、稟議書を書く必要もく、管理者も居ない。現役の時には願いようもなかった「自由な時間」が山の様にあるのだ。

 老年よ、大志をいだけ! 未来は我らの為にあるのだ

3 / 3123