不信の構造  2008年原稿メモから

2015年03月03日 風の戯言

原発のメンテナンス現場から沈痛な呻き声が聞こえてきている。震源は友人の会社であってその点は極めて個人的なの話なのだが、同時に地域としても根元的な安全に関する問題が内在している。
 原発のメンテナンス現場で、今何が起きているか聞いていますか。

 プルサーマルの問題も平沼経済産業相が柏崎刈羽原子力発電所を視察し、何となく「国もようやく本腰を入れ始めたか」との感もあり、一件落着が近い雰囲気が漂っている。しかし、刈羽村の住民投票の結果が意味するものとは、大臣が乗り出したから直ちに解決するようなそんな簡単な「不安」ではない。経済にも深く関わる問題だけに、長い間封じられてきた行政と東電と自分自身に対する不信感がマグマのように吹き出したと言っていい。固定化した賛成・反対の相互不信の中で、不毛な討論だけが飛び交い、地域に「不信」が澱のように沈み込んでいる。行政と東電は血の出るような説明をしてきたのか。商工会議所は血の出るような議論の末に「賛成」したのか。我々は自ら納得するまでの情報を集め、勉強したのか。自分自身に照らしてみれば、いずれも「NO!」であったように思う。

 私は先人たちが血尿の末に下した結論に従う。但し、自分の目は失わない。
 この国の技術水準からいえば大きな事故の心配は無いだろうと確信している。ただ私が危惧を感じるのは、マスコミ報道と現場の直向さとのギャップだ。人は病気になり、機械は疲労する。だから医療やメンテナンスが必要となる。治療・保守と事故の区別のない一方的なマスコミの「事故報道」に現場は何時か無力感に陥らないか。仕事への熱意と誠意が失われた時、「システム」は崩壊する。取り返しのつかない惨事が起きなければいいが・・・。  
 その恐れから私は何年も前から原発サイトの「映像による情報公開」をお願いしてきた。その手段としてのCATVの実現を夢見て、自分の非力も省みず何年かの無駄な努力もしてみた。「明るい昼間に、お化けの出た例しはない」と。自ら正しいと信ずる現場のリアルタイム映像は格段の説得力を持つハズである。この情報化の時代に、直接我々に「生のママの映像」で話し掛けることなしに、何故マスコミとの不毛な戦いを続けてきたのか、不思議でならない。

 もうひとつの不安は冒頭の「現場からの呻き声」だ。経済の国際化により「国策」である原子力発電事業所もコストカットが至上命題になっており、あらゆる知恵を絞り「無駄」を省くためにどの企業も死に物狂いの努力を強いられている。しかし、「何が無駄なのか、何がコストカットの対象なのか」と私は思う。大幅なコストダウンを要求されたとき、何をどう合理化し何処をカットするのか。組織にとって一番痛みが少なく、安易な方法は外注費を削ることになる。下請けに選べる道は多くない。しかし、最先端の現場を担当している下請けは実質的な品質保証を強いられながら実働時間は不安定になっている。メンテナンスのサイクルは長くなり、しかも作業は短期間を要求される。仕事が不定期になり実稼動しか下請け賃金の対象にしかならず、高度な技能集団が待機保障もないとしたらどうなるか。ある経営者は空き時間の有効活用で苦悶し、またある経営者は当座の作業員の頭数だけ揃える。経済原則から言えば経営は常に結果責任であり、後者を不誠実とは言い切れない。しかし、誠意ある有能な現場技術者が安心して仕事に打ち込める生活保障体制と評価制度が無いとしたら、そして地域と企業が次世代の優秀な技術者を育てられないとしたら・・・。原発現場の心の空洞化。そのことにより原発のメンテナンス現場で何が起きているか。  

 最小の経費で最大の効果。これは経済原則だ。しかし、安全を守るためのメンテナンス作業が、現場の経費実体を無視したコストカットに晒されているとしたら「安全」には限度がある。必要な経費は削除すべきではない。どうしても経費削除しなければならないとしたら、現場から遠い間接経費からではないのか。現場の技術評価と技術屋の心を無視していたら必ず取り返しのつかない事故が起きる。

 東京という世界最大の都市のために安いコストの電力を提供することに異論はない。しかし、そのコスト削減のために、この土地に生き続けなければならない我々が不安に晒されるとしたら、そのシステムは間違っている。経済とは共同体の全員が僅かな時間の人生を全うできるシステムのハズだ。あえて暴言を吐くならば、柏崎刈羽原子力発電所を地元自治体で接収し、ここに住み続ける企業と技術者で運営し、不安の根源を絶ち、名実ともに運命共同体として孫子の代に伝えてゆくしかないのかも知れない。「信なくば立たず」信なくば、その企業は地域に存在する価値が無い、と思う。

 地域の信頼を呼び寄せるために下記の提案をしたいと思う。

1. 地域技術会社の採用による安全性の確保
2. 映像等による情報の公開
3. 電子入札による物資・サービスの条件付き一般競争入札制の採用

 苦境にも関わらず、与えられた自身の業務に誠実に対処している現場技術者への敬意を込めて、この一文を書いた。御批判を乞う。

ユダの福音書  原稿メモから

風の戯言

ユダの福音書
石塚 修
「俺は大器晩成型」なんて嘯いているうちに既に晩鐘は鳴っていた。昨年の新年号には「老年よ、大志をいだけ!」なんて駄文を掲載させて頂いた。今年はリターンマッチの機会を頂き、返り討ちになる危険性も高いのだが司馬遼太郎風に気取れば「以下無用のことながら」とまた余計な話を書きたい。
題名を決めて、自分でも慌てている。もちろん私は学者でも宗教家でもないし、まして読書人でもない。興味の赴くままに「衝動的に」本を買い集め背表紙だけ眺めているだけで何と無く心が満ちてくるアンポンタンの本好きでしかない。ただ、乱雑な書棚の中でキリスト教関係の本と仏教に関する本が多くなっている。何を求めているのか自分でも良く判らないのだが・・・。

「ユダの福音書」について知ったのは文春7月号の佐藤優の「21世紀最大の発見、「ユダの福音書」」だった。佐藤優氏については鈴木宗男の外務省不祥事関連で自らの肩書きを「起訴休職中外務事務官」と名乗り「国家の罠」など一連の著作は目を通していたし、同志社大学神学部出身の変り種だとは知っていた。しかし、この記事を見て驚いた。1970年代の後半にエジプト中部の盗掘で発見され、数奇とも奇跡とも思われる経緯を経て現在解読が進められている。現在イスラエル・パレスチナ紛争の元であり、ユダヤ人迫害の裏切り者ユダとされ、

 宗教に興味を持ち出したのは子供の頃だったと思う。農地解放や公職追放など戦後の激動が我が家を襲い、昭和22年母が逝きその後10年の間に父や祖父母がバタバタと死んでいった。特に父は朝まで元気だったのに、小学校に登校したら亡くなったと言う知らせが届いた。こんな状況の中では「人生とは何か」と考え込んでしまう方が当然なのだろう。家は曹洞宗安住寺の檀家総代でもあり、修証義や般若心経に触れる機会が多かった。「生をアキラメ死をアキラムルはこれ仏家一大事の因縁なり」なんじゃこりゃ? 生きていることを諦めれとか? 般若心経にいたっては「色即是空、空即是色・・・」ナニ馬鹿言ってんだ! みたいな感じだったけれど、禅宗の影響はいつも影のように我が身に付いて来ていた。
だから大学の卒論は「ニヒリズム」が主題になったのもその流れの中なのかもしれない。「失われた次代」ヘミングウェイの「日はまた昇る」に能動的虚無主義をこじつけたのも、訳の解らぬままサルトルの実存主義に傾斜したのも、漂流しながらも島影を探し続けていたからなのかも知れない。
 柏崎に戻って兄の事業を手伝い夢中で働き、大酒をかっ食らって「人生とは何か」なんて考える間もなく生きることが正解なのだと言い聞かせてきた。影は消えなかったが、それなりに幸福だった。
 ある時、一つの予感の中で松井孝典の惑星物理学に出会い、自分の中で仏教と哲学と自然科学がドッキングした。丁度息子が送ってきてくれたネイティヴ・アメリカンの口承史「一万年の旅路」が手元にあり、長い旅路の終わりが見え始めたように思えた。宇宙のビックバンから48億年、地球上に生命が生まれて36億年、人類の痕跡が現れて200万年、
人間が農耕を始めて1万年、一部とは言え飢えから開放され個人の夢を追求できる自由を手にしてまだ100年にも満たない。
 梅原猛が日本の基層文化として捉える縄文人の生活宗教は、人はあり世とこの世を行ったり来たりするのだと言う。死んだ爺さんとそっくりの孫が生まれた、あぁ爺さんの生まれ変わりだね、と。地獄も極楽もなく、人は生まれ結婚し子供を育て死んでいく。「谷間に3つの鐘が鳴る」と言う曲はそんな人生を歌い上げているんだ、と俺に教えてくれたのは殺人の経験のある男だった。人は皆何処かで自分の人生に翻弄されている。
 脱線した。爺さんの生まれ変わりなんて生命科学のDNAで説明できるようになった。ただ、体験した人にしか理解できない密教の世界やいろいろな宗教の祈りについては判らない。経験から言えば必死の祈りは自然の天気さえ変える力がある。まだ科学で説明できない分野も多いのだろう。

 玄侑宗久
 テーラワーダ仏教会 アルボムッレ・スマナサーラ
 養老孟司

 ユダの福音書
 1970年代後半中部エジプトで発見 数奇な運命
 新約聖書の福音書 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
 欧米キリスト教文化圏での常識
 エイレナイオス
 キリスト教はイエスを信じることで救済される。信じないものは殲滅する。
 自由主義の愚行権 幸福追求権
 異なる文明、価値観との共存
 
 湿極と干極渇き エルサレムと日本 一神教と多神教 寛容 いわしの頭
 
そろそろ年貢の納め時?、いやいや、よそ様の期待通りに運んでは面白くない。サプライズがあってこそ人生というものだろう。しかし、確実にかつ急激に血迷う体力も失せてきた。ついこの春までは綺麗なねぇちゃんと見れば必ず携帯番号を聞き出していたのに、秋にはもう出家を考えている。なに? 情緒不安定? 

インドの四住期から言えば既に林棲期。人生の基礎を固める学生期(がくしょうき)、家族を養う家住期、そして社会への役目を終えて次世代にバトンタッチをし、静かに人生を振り返る林棲期、やがて乞食期を経て自然に帰る、という。

藍沢南城を語る会  原稿メモより

風の戯言

平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。
「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る「南条村」は私の大切な宝である。
南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。

老年よ、大志を抱け  原稿メモより

風の戯言

老年よ、大志を抱け
Old Boys, be ambitious
石塚 修
 老年よ、大志を抱け。老年は自由である。風のように自由だ、と俺は思っている。
子供達は自分の人生を歩き始め、妻には見放された。考えてみれば飯を作らせたり子を産ませたりと随分勝手な使い方をしてきた。だから「もう、嫌だ」と言うのも理解できる。  
しかし、ここで怯んではならない。まして自己嫌悪に陥ったら敵の思う壺だ。
そして、ここからが大事なのだが、健忘症とか耳が遠いとか自己責任に馴染まない神の領域が待っているのだ。此れを戦略的に駆使できれば自由を獲得する日は近い、のだ。

老人は幸せである。少なくとも「幸せだ」と考えるべきだ、と俺は思う。
一応老人の定義を「還暦」とすれば、そろって「戦前」生まれということになる。子供の頃は貧しい殆ど縄文時代のような毎日を送り、やがて輝くような高度成長期を経て今また落日を迎えている。しかし、多難な時代だったとは言え、世界史的にも例のない「幸せな時代」をこの国で生きることが出来た。真面目に努力すれば必ず報われる、そんな時代がそんな国が他の何所にあったのか。前世代は赤紙一枚で努力も才能も未来も全てチャラにさせられ死地に送られた。そんな不条理から比べたらトンでもない幸せな世代なのだろうと思う。
また若い人たちを羨ましいとは思わない。「暗闇」を知らない世代は明るく陰影がない分、人生のヒダ、味わいを知らないのではないかとさえ思うこともある。人生の尺度として比較しようもないが、「夢」を持てたし、プロジェクトXもあった。自らの力で手にした鳥肌の立つような感動を記憶の中にいくつか残している。
今、未来が見えないから不安だと言う。
老人は自由である。いや、自由になれる、と俺は思っている。
リタイヤし初めて本当の人生があるのかもしれない。妻子を養い会社の発展を願い、時には媚を売り時には人を裏切り時には胃袋の裏返るような酒も飲んできた。誰にも本音が言えず、「もっと違う人生」を夢見て流れる雲を眺めていたこともあった。
我々に残された時間はもう少なくなっている。どう考えても、残り僅か50年。そんなにないかも知れないが、元気でさえあればもう一勝負は出来る。車と同じで人間も長持ちするようになった。人生50年が平均寿命80歳になった、とすれば6掛けの人生なのだ。60歳は気持ちも身体も昔で言えば40歳。まだまだ若い、のだ。でもあんまり調子に乗ってこんな話をしていると役人が飛んできて、年金の支給年齢を上げたり老人税を取ろうとしたりする。
子供達にも注意しよう。「可愛いでしよう!」なんて催眠術懸けられて孫をあやしている場合じゃねぇぞ、って言いたいね。孫を預けて夜中まで遊んで財産むしり取ろうってんだから性質が悪い。皺を伸ばし、ダイエットし始めたら女房も完全に敵方に寝返ったと思って間違いない。「気を付けよう、暗い夜道と古女房」

で、結論。老人よ、大志を抱け!
ここまで言えばいくらお人好しでも次の行動は見えてきただろう。そう、財産持って逃げ出すことだ。少しの期間でもいい。精々1週間くらいでいいけど自分が何者でもない、知らない土地で自由に過してみるのもいい。痴呆症と間違えられ、強制送還が落ちかも知れないが、一度自由を味わった心と身体は一味違った精彩を放ち、違った人生を与えてくれるハズだと思う。残り僅かな時間しかないが、黙って風雪に晒してしまうこともないだろう。
人生は不思議だ。願ったことは実現するし、時には天候すら味方をしてくれる。しかし、願わないことは何も実現しない。どんな時にでも前向きに生きる、ってことは素晴らしいことなのかも知れない。

寒くなりました。まだ余震も続きます。お体と奥さんに気をつけて。

健忘症という、個人の責任に属さない神の領域

風船共和国 正史 原稿メモから

風の戯言

越後風船共和国 正史
おぢや「風船一揆」の物語

 白い雪原に色鮮やかな熱気球が舞う「風船一揆」、今年は31回目を迎える。もうすっかり雪国小千谷の早春の風物詩として定着し、多くの人たちに親しまれている。この祭りの仕掛け人として、大らかな時代の、些かの自慢話も含めた物語をお許し頂きたい。

 神に導かれるままに我々が「小粟田原」に降り立ったのは、日本暦で言えば昭和51年10月3日のことであった。日本国の歴史は高天原に始まり、越後風船共和国の歴史もまた小粟田原より始まる。混沌とした創世記は数々の伝説に包まれ、ロマンと冒険とが新しい時代を切り開いてゆく。欺瞞に満ちてはいるが・・・。
 その日われら柏崎熱気球苦楽部「かぐや姫とその一味」は朝から戦慄の中にあった。早朝、加納から飛び立たせた熱気球「かぐや姫」は離陸後暫らくして2人を乗せたまま北条の山の中に消えた。追跡車で探し回りながら、気球に乗れなかった我々は狂喜していた。「やつらは死んだ、次は俺だ!」正直に言って日本では7番目の、出来たばかりの我々の熱気球「かぐや姫」の方が心配だった。だって実際の熱気球に乗った人なんて日本でもまだ何人も居なかった訳だから・・。冗談が次第に小声になり、必死の捜索が続いた。北条、山潤、広田、小島、長鳥・・・成沢まで行ったり来たり、道行く人片っ端から捕まえては「気球見なかったかね」と聞いた。「気球・・? へっ?」 誰も見たものはいないらしい。数時間後山道に打ち捨てられた彼ら見つけとにかく一安心。聞けば道もない山の中に不時着し、藪を掻き分けやっと道に辿り着いたという。丁度農家の人が通りかかったので「此処は何処だね?」と聞いた。爺さんは不思議そうに「おまえ、何処から来た?」「うん、山の方から!」「山の上なんて道なんかないだろうが?」「うん、俺、空から来たんだ!」「・・・そうか、そうか、ふぅーん」爺ちゃんはそのまま行ってしまった。「空から降りて来たぁ?・・・バカが!・・」角を曲がって直ぐに、ジサマの吐き捨てるような独り言が聞こえた、と。
 道なき道を燃料のガスボンベを担ぎ上げ、気球を広げればそれだけで埋まってしまうような小さな谷から「かぐや姫」はこの日2度目のフライトに入った。山を越え、谷を超え、そしてまた山を越え、秋晴れの青空をわれらの熱気球は誇り高く、威厳すら漂わせて飛行を続けていた。「行けぇー!」我々も叫び続け、この日2度目のトランス状態に入っいた。
 午後0時20分、本当に神に導かれるままに俺達がまだ地名も知らなかった「小粟田原」に「かぐや姫」は舞い降りた。多くの見物人に囲まれ、照れくさい輝かしい秋の日だった。翌年、この地で第1回「風船一揆」を開くことになるなどその時は思いもしなかった。
 
 俺が、ぼんやりと気球に乗りたいなんて思い始めたのは「素晴らしき風船旅行」や「赤い風船」の映画を見てからだろうと思う。東京と横浜の夢に挫折し、故郷に戻り、新しい夢を捜し求めていた。ある日、若葉町の近藤塗装店で仕事の打ち合わせも終わり、若親分の近藤正雄氏と「運命の対談」に入った。「おい、熱気球作って空飛んでみないか」全く唐突な俺の誘いに「面白しげだねか、やろうて」とこれまた唐突な答えが返ってきた。「ところで、熱気球って何だね」俺は一瞬にしてこの男が好きになった。少年マガジンのヨーロッパの熱気球大会の写真が唯一の資料だった。京都大学の学生に出来て、俺ら土方や職人に出来ないことないだろうとばかり「日本で2番目」の気球を目指し、5人の仲間と2年間大久保神社で夜な夜な酒を飲んでいるうちに熱気球は出来た。世の中、何とかなるもんだ!。
 
昭和52年3月、俺達は小千谷市小粟田原で「嫁よこせ!」のムシロ旗を立てて、第1回の「風船一揆」を開催した。参加気球7機、東京、京都、広島から、そしてアメリカの気球野郎も加わり、雪原にカラフルな熱気球が舞い、炸裂するような早春の祭りが始まった。宿は中鯖石コミュニティ、除雪も会場作りも交通整理も食事作りも、みんな風船共和国の仲間の手作りだった。
 56年から当時の星野行男小千谷市長、片貝花火-四尺玉の本田善治観光協会長の本格的な支援が始まり商工会議所も巻き込んで小千谷市の冬の一大イベントとして新たなスタートを切った。昼間の雪原フライト、夕方のバルーングロー、そして夜は全国から集まった気球の仲間、地元のスタッフ、観光客、一般市民を合わせ数百人の大パーティが夜の更けるまで続く。あれから30年近く、今も首謀者は朝日木材の金子修一氏が続けている。昨年、世界航空スポーツ協会から小千谷市と越後風船共和国は30年の表彰を受けた。世の中、何とかなって行くもんだ!