響 投稿原稿 「柏崎らしさ」
柏崎技術開発振興協会の「再生可能エネルギーと蓄電技術応用プロジェクト」に参加し、「柏崎らしい」商品開発に苦悶している。東芝の2次電池SCiBを使うことが条件なのだが「柏崎らしい」商品」ってどうすりゃいいんだ ?
ところで「柏崎らしさ」って何だろう ?
海・・・? 日本の周辺は海だけじゃないか・・・?
柏崎の特徴って「消滅可能都市」・・・高齢者が多く、市内も周辺地域も「過疎地」・・・これが特徴?
そうか ! 「柏崎らしさ」というのは「老人と海」なんだ !
日本中、高齢者が溢れている。であるならば「ターゲット顧客」を高齢者に絞り込んだら、どんな商品開発が可能なのか?
はっと気がついたら、自分は既に高齢者であった。しかも来年は立派な「後期高齢者」になる。で今、自分が一番欲しいモノ?、そうだ、リハビリゴルフを楽しませてくれる、芝生を歩かなくてもよいゴルフカートだ! いいじゃん ! それだよ。
閃けば後は俺は天才。次から次へとアイディアが沸いてくる。
電動車椅子にゴルフバックを積めばいい。商品名は「ボケモンGolf cart」。ゴルフ場のコースデータとGPS、ボールの自動追尾システム、自動運転技術を組み込めば一丁出来上がり。
どうだ! 柏崎カントリーは海は海が近い。柏崎は年寄りにバカ優しい町なんだよ。絶対柏崎の「売り」になるハズ。
「・・・で、お前のボールは何時も藪の中に入るけど、その時はどうするのだ?」
「・・・・・余計なこと言わない方が身の為だぞ !」
ネット民主主義
民主主義が揺らいでいる。
というより、本来政治手法としての「民主主義」には疑念があった。それが今の政治に生きているのは、もっといい方法があるのだろうが、今の現実では「他に方法がない」と見られているからだ。
民主主義が本来の理念を実現するには「人民は優秀でなければならない」。 議論が出来て、「よりよい方法」が多数決で決まった時には、皆それに従う、ということ。
大衆は議論が出来ない。
歴史を見れば大衆は「強いものに巻かれる」。強いものは武力であったり、大衆を扇動する力であったり、金の力であったりする。
司馬遼太郎は「リーダーの条件は、食わせることが出来ること」だと喝破している。自分だけ肥えているのは・・・神はみんな見ている。
「小池劇場」で変化が見えてきた。
民衆の力を引き出すのは大衆の不満に乗り、煽るマスメディアの力と、その源泉は「ネットワーク」で集約される大衆のデーター化である。
小池劇場」でデータ民主主義、ネットによる市民の要望の集積、AIによる分析と解決策の推測が進み、世の中は変わってくる。本当の「ネットワークの時代」が始まっている。
しかし、油断してはならない。リーダーは化けるし、大衆の欲望は一夜で変わり、大衆は娯楽を求めている。そして、悲劇は最大のご馳走。
トモダチ作戦
柏?市長選挙、新潟県知事選挙、野次馬を楽しませてくれたけれど、そろそろ本番。無責任なことも言っていられないぞ。
ここに住んでいる者にとって未来の課題は原発だけではないのだけれど、どちらの選挙も争点は「原発是か非か」の一点。
仕分けは極端だけれど、安全か生活手段かに尽き、もっと言えば自分の人生を原発に依存するか、自立自尊の道を選ぶか、だろう。
産業は人間の幸福に資するものであるべき。
安心して未来に夢を描かれるかどうか、だろう。
3.11東北大震災の時、米空母ドナルド・レーガンは韓国に向けていた進路を変え、12日からほぼ2ヶ月「トモダチ作戦」として震災の救援に当たったという。
しかし、フクシマの救援から帰った兵士達はガイガーカウンターが振り切れる程の被爆をし、今も400人くらいが身体の異常を訴え、7人が亡くなったという。
出身が貧しい兵士達は除隊後の生活不安が残り、補償を求めて東電を裁判に引き出そうとしている。
核は誰の幸福にもならない。
チキンレースのような世界の情勢が・・・人間にはまだ本物の「知性」はないのかも知れない。
石川啄木
やわらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けと如くに
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
砂山の 砂に腹這い
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日
中学生の頃、初恋と未来への不安に七転八倒しているなかで、石川啄木の短歌に出会い、殆ど情緒不安定な錯乱状態に陥ってしまっていた。
正直に言えば、まだあの頃の世界に漂っている。
あの時代から60年が過ぎ、今新たに「文学とは何か」に迷い続けている。大学の卒論でヘミングウエイ「日はまた昇る」を題材に「無」の世界に切り込んで行ったが、何ヶ月もぼろ長屋の閉じ篭もり、掴んだものからは脱出できていない。
出来た卒論を届けに行ったら、期末試験が終わっていた。
「文学とは何か」今も解らない。
19日、ドナルド・キーン。センター開館3周年記念特別講演会を覗いてきた。
主題は「石川啄木の日記」。文学者の日記とは人に読まれることをむしろ予期しながら書き続ける「日記文学」。自らの弱さをさらけ出すことに事によって、人に勇気を与える、ってことか・・・よく判らない。
人は皆、自分を強く見せようと「滑稽な殻」を補強し続けている。
響投稿原稿 「東京都は伏魔殿」
お行儀の悪い野次馬にとって「小池劇場」は痛快な活劇である。早速「現場を見にも行ってきた。
「年増の厚化粧」が都知事に就任し幕が開いたとたん「豊洲市場」では基準値を43000倍もの有害物質を地下に封じ込める為の盛り土より、建物のメンテナンスの利便性を優先させた問題が火を噴いた。
「審査委員会」が「提案」した「盛り土」が「無視」された行政組織は誰が責任を持つのか。また「提案」とは何なのか、効力は何処まであるのか?・・・解んねぇ・・・
石原慎太郎が都知事の時代、盛り土よりも空洞を提案したのは「私は素人、下から揚がってきた案だもの」と回答し、記者団に突っ込まれた挙げ句「東京都は伏魔殿」と吐き捨てた。「エエッ ! お前が言うか ?」だ。
「安全性」よりも「利便性」を優先する。「何のために」の目的が軽やかに捨てさられ、議論は責任回避や詭弁のオンパレードに終始する。「知らなかった」「誰かが決めたことだ」・・・「メルトダウン」にも繋がってくる。
しかも地下空間に溜まった水を調べてみたら基準値以下だった!・・・800億円も掛けた「盛り土」は不要だったってこと?・・・
日出る瑞穂の国は「恥の文化」を大切にした「神の国」ではなかったのか・・・頭がクラクラしてきた。老衰が始まったのかな。