銀閣寺
何か、ご褒美のような秋の一日。
何のご褒美か、心当たりは何もないのだが・・・。
もう何年になるのだろう・・・?、結婚を記念して、というか日常の不謹慎に対する女房へのお詫びを兼ねて、秋の一日を京都で遊ぶことにしている。
着いた日に嵐山渡月橋を訪れ、8月の大雨の被害が綺麗に消えていることを確認し、陽の傾き賭けた堤防を歩いた。
翌日は午前中雨、午後からの京都御所見学は見事な青空。本の世界だけだった歴史を目の前にしてあれこれ妄想が駆け巡る。御所内の説明で、平安貴族が意外と多忙だったことを知り、些か現実感に襲われ、夢が壊れかける。
ドナルド・キーン全集の第8巻が「足利義政と銀閣寺」なので「現場を踏む」意味から回り道してみる。ここから現代の日本が始まった、と言うのだが・・・。
銀閣寺の庭園を復元・修理した孤高の庭師、田中泰阿弥師が柏崎下加納の人で、この庭を見たかった。
庭を楽しむには季節が良すぎ、人が多すぎた。
出来れば小雨の降る中を、1人宇宙と歴史と人生を彷徨いながら、うちひしがれるのがいいのかも知れない。
写真は銀閣寺にて。
些細なこと・・・
地球に蠢く我らは、実は「無」に近い。
ただ、人間の不思議さは、その「天の意思」を理解しながらもなお「自らの意思」を実現させようと藻掻く。
「天の意思」から見れば「人間自らの意思」は些細なこと・・・なんだろうが、それが熱い。
愛や恋、遠くなったがなくなった訳ではない。
時折、熱い想いが吹き上げる。
時折自分の意思を制御できなくなる。
能動的虚無主義 Positive nihilism
格好付ければそんな言葉になるが、要は「天の意思」を意識しながら「自らの意思」を貫くこと。今日を精一杯に生きること・・・それしかないのだろう。
なんて、今更のように肩肘張ることでもないけれど・・・。