謹賀新年 越後タイムス新年号掲載原稿

2014年01月01日 風の戯言


 小泉元総理の「原発ゼロ宣言」にはたまげた。
 
 「君子豹変」に娑婆は戸惑いながらも原発を巡る議論は一段と熱をおびてきたようだ。

 しかし、本当に「原発はゼロ」でいいのか?

 現在日本の原発は殆ど止まっている。原発分の電力需要を補うために火力発電所がフル稼働し、燃料油の輸入だけで2000億ドルを超えている。当然これは国内の生産原価を押し上げ、輸出競争力に多大な影響を及ぼしているのだろう。
 アメリカのシェール革命による国際経済の変動は避けられず、原油輸入ルートのシーレーン防衛問題にも変更を迫られてくるのだろう。
 要は産業立国としての日本の根底が揺らぎ始めている、と言うこと。また火力発電によるCO2排出量が劇的に増えている。京都議定書のあの高揚感は何処に行ったのだろう。

 ならば「原発」は是か?
 チェリノブイリ−スリーマイル−カシワザキ。
 かつてそんな暴言を吐き、総スカンを食っていたこともあった。カシワザキがフクシマに変わったけれど、これがもし「新潟県中越沖地震」がもう少し大きかったら柏崎はどうなっていたのだろう。想定外?

 唯一の原爆被災国として「核」にたいする拒絶感は強い。「原爆」と「原発」は違うと言いながら、「核分裂」の「瞬間」か「継続的」かという目的・機能の違いから「原発は平和利用」とされている。しかし、「核保有国」による「核分散を防ぐ」という第2次世界大戦戦勝国体制の戦略延長線上の制約は免れない。
 「原発」という危険性と、それを取り巻く危うさ、言えば誰が「廃炉」の決断を下せるのか、その権限と責任も非常に曖昧だ。端的に言えば利害調整のリーダーシップが何処に存在するのか、まるで判らない。東電なのか、国なのか、県なのか、市なのか。

 「原発」の最終廃棄物の処分場も決まっていないという。日本に原発が生まれて何年になるのか? 今は最終決定の落ち着く先も見えない。また、完全撤廃までの間に「新潟県中越沖地震」よりもっと大きな災害に見舞われた時にはどうなるのか?

 電気の消費量はどう変化していくのか?

 藻谷浩介「デフレの正体」ではないが経済は人口により変動する。グローバル時代とはいえ基本的には国家なり地域なりの人口の規模によるものなのだろう。だとすれば、日本は今後40年に渡って年間100万人、約4000万人の人口が消滅すると予測されている。現在1億2000万人が概略8000万人になる。だとすれば経済も、電力消費量も2/3に減っても不思議はない。電化製品の効率化により急減するのかも知れない。

 1000兆円を超える国の借金と、人口縮小。日本全体が過疎地になり、人口密集地の太平洋岸には南海トラフの地震が予測されている。いやいや、楽なこっちゃないね。

 生きのびるための未来予測、一番有効なのは動物的な「予感」だが、通常は危機が現実のものにならない限り人間は「あたふた」しない。カッサンドラの法則。

 現実の未来予測は、情報化社会においては変動は瞬時に世界を駆け巡るけれど、「現状把握」が明確で、具体的な数値、方法論を積み上げていかないと「テモヅラ」だけで終わってしまう。

 だから原発は是なのか、非なのか?

 「柏崎・刈羽原子力発電所」の軒下で暮らす我々にとって、マスコミ的な「評論」ではなく現実の選択が迫られている。 柏崎に原発があることによる経済的恩恵も計り知れない。

 正直言えば「どうすればいいのか」自分では判らない。

 しかし現実論として、現存する原発を廃炉にするためには数十年の歳月が掛かるという。廃炉ビジネスも考えられるが、再稼働し、1基の稼働利益を廃炉の費用に回しながら徐々に次の時代に向かっていく。
 そして世界一の原子力発電所をメタンハイドレードによる火力発電、あるいは海水をエネルギー変える夢のような未来に向けて、柏崎を世界の中心に変えていけないのか。

 原発の心配もなく、産業が活発で、自然に囲まれて豊かな人生が送れるところ。残り少なくなった人生だけれど、この柏崎で子供達や孫達と未来の夢を語り、暮らしていきたい。