佐渡ゆり
阿川弘之の「大人の見識」(新潮新書)のカバーに
軽躁なる日本人へ
急ぎの用はゆっくりと
理詰めで人を責めるな
静に過すことを習え・・・とあった。
「急ぎの用はゆっくりと」というのは考えさせられる。軽躁なる身はいつも何かにおわれているようで、本は買ってきても読まない、気に入った本は取敢えず開く、物語や小説は筋書きの先を知りたくておちおち読んでいられない。従って感動してもメモも付箋もつけない。暫らくしてフラッシュバックのように感動の文章が吹き上がってくるのだが、記憶が定かでない為に確認しようがない・・・。
静謐な時を愛せ・・・その意味では田舎暮らしの休日はありがたい。殆ど訪ねてくる人もなく、痴呆のように暮している。
2面のガラス戸を開けると新しい風道を風が駆け抜けていく。部屋の端で籐椅子に掛け無造作に詰れた本を読んでみる。面白そうな本に集中し書き込みしたり付箋をつけたりして読み返してみる。66歳を過ぎて、ようやくゆっくりと本を読んで見ようという気になった。
庭の片隅で今年も佐渡ゆりが咲きはじめた。
薄いピンクのバラが終わり、赤いバラが咲きはじめた。そんな季節の移ろいの中で佐渡ゆりが定着し株が広がってゆく。なんとも、嬉しいんだなぁ。
入梅
酒を断って随分になると思ったが、まだ3週間でしかない。そんなもんか? だが、身体は軽く出張や会議もそんなに苦にならない。一昨日は豊田市で焼肉屋のハシゴ・・・初体験だったが・・・昨日は10時までウーロン茶で2軒ハシゴ・・・今日の新潟でのIBMの懇親会はウーロン茶で早逃げ。多少疲れたけれど、少しづつ酒毒が抜けているのだろう。身体が楽になっている。
「酒呑まねぇ石塚なんて、嫌だ!」嫌だといわれても・・・俺は金輪際酒は飲まない、そう決めたのだ。そう言いながら酒無でも馬鹿騒ぎをしている。俺は何だ?
上品に言えば「ユーモア」の持ち主、日本語では「軽薄」多少砕けて「ひょうきん」、鯖石言葉では「ギット」 どれも人格者というイメージからは遠い。他の日本人が固すぎるんだ、そういうことだ。
新潟から特急北越で帰る途中、角田山に落ちる夕陽が大きく、赤く、凄く綺麗な夕陽だった。車窓から携帯で写真を撮りながら、ふと、人間なんて動物の一種でしかないのに三度三度のご飯を食べなくては活力に乏しく、命は必ず尽きることを、日常的には忘れている。妙な生き物だな、と一人ブツブツ言っていたら「トワイライト・エキスプレス」とすれ違った。
動物にはこんな楽しみはないんだろうな。
アメリカでは人間の家畜化が始まっている。日本がアメリカのグローバルスタンダードを受け入れる限り、やがて日本でも格差が進み人間の家畜化が始まる。日没と共に、俺の中の軽薄さが消えて行き何か重いものが下りてきた。いやだね。
楽観は意志に属し、悲観は感情に属す。
五穀豊穣祈願
今日はエンマ市の最終日。銀行の支店長を訪ねながら人で賑わう西本町の一角を散策してきた。軒を並べた香具師の露天商は思い思いのものを商っている。行列の出来る店から閑古鳥の鳴いている店まで、この世界も様々だ。
この三日間はお天気に恵まれ、通りには若いママさんたちの姿が目だった。
夕刻、越後みそ西の豆作りをお願いしている高柳町荻の島の中西さんを訪ねた。環状集落の中央の田圃一枚をお借りし味噌豆を作っている。今年は2年目。昨年は出来た豆を選りすぐり、新嘗祭に奉納するような気持ちで一合の豆を村の松尾神社に収めた。五穀豊穣 感謝。
今年の畑の出来はよいので豊かな実りを結んでくれればと祈っている。中西家に立ち寄りお茶を頂いてきた。この集落の家々に心豊かな生活が残っている。
話は全米オープンゴルフに飛ぶ。
土日と岩手・宮城内陸地震のニュースに釘付けになり、もう一つはタイガー・ウッズに目も離せない。実を言えばゴルフをこんなに感動しながら見たことは無い。13Hのイーグル、17Hのチップインバーデー、18Hのイーグル。もうどんな演出でもこんな鳥肌の立つような感動は再現できないだろう。
4日目は最終18HでバーディをとりONEアンダーで並んだ。
明日が楽しみだ。人を感動の坩堝に投げ込んでくれる男 タイガーの魅力を堪能した。
バラが咲いた
酒を一滴も飲まない日々が続いている。まだ1週間ほどでしかないが、中学2年の時から晩酌を覚え、孝行の下宿ではウィスキーを机に忍ばせ、浪人・大学時代は切れることが無かった。まして建設業時代、まして熱気球の時代は文字通り一升瓶が転がっていた。政治に興味を持ち徒党を組んでいた時でもあり、脳はブヨブヨだった。
この仕事を始めてからも酒とは縁が切れない、どころか磨きが掛かってしまい、午前様になることが通常な状態、だったかも知れない。中谷が元気だった頃は週4日は一緒に飲んでいた。自慢になる話ではないが、自分の中で何かを確かめていたのだろう。
最近ようやくブレーキがかかり、ついにエンストを起こした。身体の要求なのだろう、呑む気にもならない。
するとどうだ! 身体も頭もブヨブヨ感がなくなり、切れ味がいいのだ。再開したゴルフは250ヤードは飛ばす。休日は朝から暗くなるまで外に出ていて愉しい。もう少しでジョギングも始められるのかもしれない。
いわゆる勝利というものを定義するなら、失ったものより得たものが多いことである。とすれば俺は勝利者? まだその評価を下すのは早すぎるが、健康であると言うことは何と愉しいことか!
地球外生命体
地球の歴史の、気の遠くなるような時間から比べれば人間一生なんて化学変化にも似た一瞬に過ぎない。ではあるけれど、生身の人間の感覚的な時間としては結構長いものとして感じる。特に人生50年が弾性限界を超えて80年とか90年に延びている。峠の向こうの長い坂をトコトコと下りてゆくのは、自分としてはキツイ感じがする。
老後なんていう仮説の未来を前提とすると.生きる力は半減するように思える。明日何があってもいい、今日を力の限りを尽くせばいい、のだ。
何でこんなことを言うかというと、少しの酒が翌日に応えるようになった。明日、精一杯に生きようと思うと今日の享楽を抑える・・・要は酒を控えることなのだが・・・詰らぬ人生になってきた。