18歳と81歳の違い

2021.11.07 風の戯言

恋に溺れるのが18歳、風呂に溺れるのが81歳
道路を爆走するのが18歳、逆走するのが81歳
心がもろいのが18歳、骨がもろいのが81歳
ドキドキが止まらないのか18歳、動機が止まらないのが81歳
恋で胸を詰まらせる18歳、もちでのどを詰まらせるのが81歳
偏差値が気になる18歳、血圧・血糖値が気になる81歳
まだ何も知らない18歳、もう何も覚えていない81歳
自分探しをしている18歳、皆が自分を探している81歳

やれやれ!

人様のものを転用しています。

そして今日は立冬

秋の虹

2021.11.05 風の戯言

リーダーの条件

自己反省は絶対に一人でなさねばならない。
決断を下すのも孤独だが、反省もまた孤独な行為なのである。

塩野七生
「日本人へ」 
副題 なぜリスクをとるリーダーが出ないのか

垣根の菊

2021.11.04 風の戯言

一時、花は何処に行ったの、と思っていたが紅葉に合わせ賑やかになってきた。

自然は季節の詩を綴っている。

敦煌

2021.11.03 風の戯言

喜多郎の「敦煌」に浸っている。

気球を作っているころ、新潟大学探検部の一人が「タクラマカン砂漠の縁に佇んでみれば、人生が何か少しは判るかも知れない」と生意気なことを言っていたことを思い出している。

もう40年も前のことになる。

墨子と算盤

2021.11.02 風の戯言

 米軍のアフガン撤退ニュースに異民族支配の難しさを思う。
 歴史的にアメリカが成功した例は日本だけだろう。ベトナムもアフガンも失敗。軍事と経済だけでは何とかなりそうだが、「民族の文化」という得体の知れない世界に驚かされる。

 アフガニスタンがどんな国なのかは知らない。
 ただ、中村哲医師への興味、映画「花と龍」のモデル九州若松港の大親分玉井金五郎の孫、火野葦平の甥、そしてアフガン出兵の時の参考人として呼ばれた国会で、自衛隊派遣を「有害無益」と言い放った話にもう全身痙攣を起こしそうに痺れる! あの度胸の座り方と侠気は単なる医者にして置くには勿体ない。事実、中村哲は医師であり土方だった。現地の人と夢を語り、戦乱と天候異変で干乾びた荒れ地に水路を通し60万人の人たちを飢えから解放し、地域の集会所を作り、学校を作ったという。

 半藤一利「墨子よみがえる」を読んでいたら中村哲さんを「現代の墨子」と称えていた。「墨子」がどんな人だったかもよく解らないが、その一言で2500年以前から続くリーダーの理想像が見えてきた。浅田次郎の「中原の虹」では満州馬賊の総攬把張作霖に「我が勲しは民の平安」と叫ばせている。勲しとは地位や名誉や富ではなく、誰に称賛されることでもなく、言えば「心の勲章」なのか。住民が家族揃って三度の飯を食えること、そんな平和な生活を支えることがリーダーとしての「勲し」だと。

 この一言は中村哲にも墨子にも通じているようだ。
 半藤一利さんは逝去される直前に、奥さんに「墨子を読め」と言ってその反戦論を強調されていたという。愚かな戦争で東京は焼夷弾の絨毯爆撃を受け、長岡は灰燼に帰した。
 
 墨子は「兼愛」というけど、よく解らない。ただ「非攻」は理解できそうだ。多分「非戦」、は「専守防衛」のことだろう。責められぬ為、堅固な城造りを説いたという。
 それにしても人は何故「戦争」に熱中するのか。一部のバカドモに惑わされ、兵士たちは家族から引き離され、ただ一度の生を、「死んで来い!」と「バンザイ !」で前線に送り出され、且つ死んでも骨も拾ってもらえずに朽ちてしまう。それでも時として戦争に煽られてしまうのは何故なのか、「国のため」とは何なのか。「希望の歴史」で語られる人間の善意とは何なのか。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」中村哲のこの言葉は腹を抉る。

 草や木や動物魚昆虫まで生命あるものには全て死がある。岩石や地球までも「時間」という流れの中を漂っているに過ぎない。
 人間も、他の生き物もすべて同じ運命を背負う。その当然のことを知ることが「愛」だという。「ダンマパタ 法句経」にはそんなことが書いてあったようだ。許された僅かな時間を共有する偶然は、大袈裟に言えば「奇跡」でもあるのだろう。目の前に群れる赤トンボも同じ奇跡の中に居る。仏教もそのことを「根」としているように思える。その「根」を共有できないと全ての議論も生き方も浮ついたものにしか聞こえなくなってしまう。
 「無」を認識することによる「温かさ」が無くなってしまうのだと思う。

 一介の経済人として「企業とは何か」と考える。生きている限り「新たな日常」だってお金に振り回される。
 経済社会としてはそれが「基本的なルール」であることは自明なこと。しかしAIやDXにより人間のやることの効率化が叫ばれ、いわゆる2045年のシンギュラリティ、『人工知能(AI)が人類の知能を超える転換点(技術的特異点)』に向かって指数関数的な変化をしているという。曰く、人間はエネルギー問題からも、食の問題からも解放され、そして老化から自由になるという。IPS細胞研究はその可能性の未来を示している。
働かなくても生きていけるとはありがたいお話ですが、私は結構です。だって、人間の幸福って一生懸命働いて人に喜んでもらい、その代償としてお金を貰い、少しは人前ででかい顔が出来ることだろう。働けるのにお金やるから「生きてろ」たってそうは単純にはなれないし、文句言わずに黙って生きてろとはチト酷過ぎるんじゃないですか。でも本当にどうなるのだろう。

 経済社会では算盤は手放せない。
 経済格差が拡大し資産を「無の世界」まで持って行ける訳でもないけれど、生身の人間にとって決して短くはない時間は悟りきったようなことは言っていられない。生活するためにはそれを支えるお金が必要になる。会社は経営者と社員との生活共同体であり、一心同体でなければ一つのパワーとしての「company」になれない。人生は自由だが、人生の根底には算盤が必要になる。
人間はグループで生活する。どんなグループにも未来に歩みだすためにリーダーが必要だ。リーダーが人を説得し動かすための要素として(論理)、(感情)、(信頼)の三つが重要だとされる。墨子は「人材」と言っているが、リーダーには  
「人の心」が判る必要があるのだろう。同じ夢を見、同じ釜の飯を食い、苦楽を共ににしなければワンチームにはなれない。だから、趣味から言えばカルタゴのハンニバルや満州馬賊のように野山で兵士と寝食を共にする将軍が好きなのだが・・・。現場で働く人達は静かにリーダーを見つめている。リーダーは私利私欲を捨て自分たちのために戦っていてくれるのか。
 
 経営の基本は「夢と算盤」だと思う。
 どんな理想を描いても社員が「飯が食えなければ」リーダーとしての役割を果たせない。現代は顧客や社員の家族をはじめとして、取引先から地域の人のまで、現場を取り巻くステークホルダーまでの幸福を考えないと企業経営の資格はないという。資本主義がティッピングポイントに来ていると言われる。獲得した収益の配分を間違い、マーケットを育てることを忘れてしまっていたのかも知れない。人の幸福を、そして地球環境という社会的共通資本を粗末に扱った報いが来ている、のかも知れないとも思う。

 SDGsが叫ばれている。
「持続可能な開発目標」とは何なのかよく解らない日本語だが、多分「安定と成長」ということだろう。まだ「成長」しなくてはならないのか、という懸念は残る。しかし温暖化という問題は、小さな地球に人間というウィルスが蔓延ってしまい、2030年までに目標達成しないと地球環境は壊れてしまう、だから大急ぎでワクチン接種をしないといけないということか。
 ただ、14歳の女の子のたった一人で始めたハンガーストライキが、「こどもの未来を奪うな!」という叫びが、世界を動かしている。グローバル化、情報化時代と言われる現代、地球環境への危機感の叫びが、世界に木霊し、漸く多くの人達を動かし始めた。

 人間の住環境としての地球の限界が見えてきている。
 幸福追求に「正」と考えられていた産業構造の拡大を見直さないと人間は滅亡する。産業革命以来、人間は「利便」だけを追い求め、生物が生きる「自然環境の有限性」の限界を超えそうになってしまった。現在は危機管理でいえば生き延びる為のラストチャンスなのかも知れない。急に転換は出来ないがSDGsが叫ぶ2030年はもう目の前。急がなくてはならない。
 またSDGsは義務感ではなく、新しい時代のビジネスとしても立ち上がり、新たな配分により未来を切り開く夢が生まれてきている。風が吹くと世界は変わる。「SDGs市民」という言葉が歩き始めた。政治家や企業経営者やマスコミ族だけでなく、SNSの世界から発せられる、今まで無責任と思われていた「個人の声」が政治や産業を変え始めている。
 与えられた「奇跡」のような一生を幸せに生きたいという願いは民族を問わず、貧富を問わず、貴賤を問わず全ての人が求めていることだろう。そして幸せとは何か、ゆたかな社会とは何か。GNI(国民総所得)では日本は世界第3位だが「世界幸福度ランキング」世界56位だそうだ。このギャップは何だろう。そして本当の幸福ってなんだろう。立ち止まって、静かに「感じる」必要がありそうだ。

 地球が小さくなり、「万物の有限性」が見直され、「無の世界」に対する理解が求められている。自分流には「有限性」を超えた部分、「無」の世界は「未知の世界」より「神」の領域のように思う。「科学と神の融合」とでもいうのか、神の存在を感じなければ人の落ち着きは失われていく。ある意味、科学やAIだけでは複雑怪奇な「人間の心」は解らない。宗教は哲学の打ち止めと理解していたが。しかし感情と科学が「腹落ち」しないと前に進めなくなる。
墨子の「兼愛」、「愛」とは「万物の有限性」を認識のベースにした生き方ではないかと思う。無限な宇宙に漂う「有限」だからこそ、その刹那的な有限を実感できる「今」こそ懸命に生きよ、と。兜の前立てに「愛」を掲げ、直江兼次は何を考えていたのだろう。
 すべては通り過ぎて行く風。今頬を撫でている風こそ現実、我欲にブレーキを掛けないと「今」の時点で意識を失ってしまう、そんな気がする。

 そんな妄想に浸っていると、柏崎と言う土地が、神が未来の為に残しておいた選ばれた地域ではないかと思う時がある。学生時代、ニヒリズムの洗礼を受け、以来開き直ってしまった人間が80歳になって神を感じるなんて・・・仏さまにデートに誘われたような感じ!
 
 時折、藍沢南城は南条と善根が出会うあたりで夕暮れの黒姫山を眺めていたという。少し歩けば、遠く苗場山も見える。夕焼が西の空を焦がし、夕餉の支度に忙しい竈の煙が立ちのぼる。春には桜の花が咲き、秋には柿の実が赤く実る。魂が震えるような風景だ。

 南城が29歳で江戸から故郷に帰えった時の詩、藍沢南城三余抄詩集の巻頭を飾る「南条村」を思い出しながらこの絶景に沈み込む。
 この一編の詩の他に俺は何も要らない。この詩さえあれば俺は生きていける、今もそう思い続けている。

 この風景を越後毛利の時代を生きていた人たちも見ていたのだろう。
 小説佐橋の荘「放下」に目を通していたら「サハシノショウ」という紫陽花のことを知った。額紫陽花の一種なのだろうが、故郷の古い地名を花の名に遺した雅に感動する。

 今一度「南条村」の世界に遊んで見ようと思う。そして今の時代だからこそもう一度「墨子」を、ゆっくりと読んでみる必要かあるのかも知れない。

投稿原稿
写真は我が家の2階の窓から 10/31 16;08