無題
かつて「原発は絶対安全」との神話があった。
「柏崎・刈羽原子力発電所」は身近な存在だった。「絶対安全」に多少の疑念はあっても、深く考えることは無かった。「世界一の原子力発電所」だったから、誇らしく、一住民としても経済人としても積極的賛成派だった。
しかし、3.11 「大地震・津波」による「事故」だったとしても「絶対安全」神話が根底から崩れた事件だった。連日の津波と原発爆発の映像報道はいくらバカみたいな楽天家でも強烈な打撃を受けた。そして「想定外」の言葉が頭に焼き付いた。
春になって、神官に同道してもらい南相馬の海に鎮魂の祈りを捧げに行った。道路に船が乗り上げ、町は消え、農家に人影はなかった。福島第一原発に向かおうとしたら20キロ手前で警備の人たちに止められた。「俺は柏崎から来たんだ。通せ! 」ダメだった。
雑誌の記事や論文にも目を通した。Fukushima 50や関連の本も読んでみた。だが「何か」が足りないのだ。多分取り組みの真剣さが足りないのだろう。世界最大の原子力発電所と現場の危機感がガミ違っているように見えた。東電本社を柏崎刈羽に移し、家族みんなで原発立地地域に住んで貰えば問題は解決するだろう、と柏崎日報に意見広告を打ってみた。
真剣に取り合って頂いた幹部が六ケ所に飛ばされた、という話も聞いた。こんなことしていたら、少なくとも人類の未来を賭けた、ここで働く人たちの仕事へのプライド崩壊してしまう。人はパンのみに生きるものにあらず。どんな仕事にも、人は「生きがい」必要だと思う。働く人に感動するほどの「働き甲斐」を持ってもらうのが「組織の共育」だ。
しかし、今回の柏崎原発の不始末は「人」の問題だけではない。「透明性と情報公開」がなければ地域の人、だけでなく国民や世界の人からは信用されないだろう。テロや情報遺漏が心配だから、「不手際」の公開が出来なかった、という。ただ、ここで何が最優先されなければならない課題なのか。それが納得できない限り単なる「言い訳」でしかない。
「透明性と情報公開」を進める為に「デジタル化」がある。今現在稼働中の装置を使いリスク・コミュニケーション・ネットワークにより情報を集約化し、人工知能で分析し、安全情報を提供するシステムはそんなに面倒はない。不足する情報はローカル5Gや多種多様なセンサーで補足すればいい。セキュリティの問題も解決方法はあるはずだ。
台湾のオードリー・タンによればGX(デジタル・トランスフォーメーション)はアナログとアナログを繋ぐ技術だ、という。デジタルとは人間の道具でしかないのだと。
人と人を繋ぎ止めるものは「信頼」でしかない。「信頼」とは疑い、疑念を解き、決断を共有することだと思う。
「再稼働」はその先にしかない。