やすらぎの郷

2019.05.21 風の戯言

「令和」への改元、10連休という今年のゴールデン・ウィーク、正直言えば経済人とすれば不安なスタートだったが、5月の風のように爽やかに休日は過ぎていった。
八石山は柔らかな緑を増やし、連休が終わる頃には若葉に覆われていた。
家々には春の花が咲き、涅槃仏のお姿と言われる八石山は「赤子に添い寝している母」の姿にも見える。
黒姫山にはブナ林が似合い、鯖石川はゆったりと流れている。
鯖石は「やすらぎの郷」なのだ。
 
「昭和」から「平成」へ、そして「令和」へ

「令和」とは「うるわしき大和」との意だと発案者の中西進さんは言い、元号を大切にするのは日本の文化であり、「おしゃれ心」だという。
だが現代史は少し違うような気がする。
昭和天皇は軍とマスコミと国民とによる暴走を許し、最後は本土決戦・1億総玉砕を叫ぶ軍を抑え、玉音放送で「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」無条件降伏という屈辱の中で民の平安を決断された。
敗戦により天皇は「現人神」から「人間」になり、民衆は焼夷弾と原爆で焼け野原になった故郷を、哀しみを乗り越え奇跡のように復興させた。

平和の礎を自らの力で築き上げたのだと思う。

平成天皇は「象徴」の任務という激しい勤めを終えられた。
被災地で膝を折り多くの人を見舞われたけど、両陛下は幾つかの大東亜戦争の激戦地にも慰霊に訪れられている。
パラオの海は魂まで奪われそうに美しい。
何も知らないままにペリリュー島を訪ねたことがある。

この南の島は1万余の日本兵の「玉砕」の島であり、平成天皇がこの島にまで慰霊に訪れられたことを知らなかった。
グラマンの機銃掃射、B-17による爆撃、艦砲射撃、情け容赦ない火炎放射器で、身動きできない南の島の洞窟の中で日本兵は餓えて死んだという。

赤紙一枚で招集された若者達が、なんの為にこの島で死ななければならなかったのか。

小田実の「玉砕」が悲しい。ドナルド・キーン先生が英訳されていたことも初めて知った。

陛下が供花された海辺の「西太平洋戦没者の碑」に、俺は冷えたペットボトルを捧げることしか出来なかった。
その時、平和とは何であるか、少し判ったような気がした。

平和とは母親が安心して子供達を育てられる環境、それが本当の「やすらぎの郷」なのだと思う。

柏﨑日報 5月20日掲載 少し手を入れてあります。

小林サイさん

2019.05.19 風の戯言

曽地で整体にかかり、帰れない白鳥を見て、誰かに呼ばれるように 東長鳥杉平に向かった。

小林さんの屋敷跡は素敵な墓地公園になっていて、手を合わせてくる。

確か、今月の待つが命日だったと思う。

もう、50年も昔のことになる。

墓地と芝生の広場は綺麗に手入れが行き届いていて、駐車場の土手にも芝桜が満開になっていた。

ここで圃場整備の仕事をしたり、桑園の造成をしたりしていた。

村中の人達と明日を夢見、汗を流し、みんなの涙を見た。

ここは俺の出発点みたいな集落、みんな親戚みたいな人達だった。

帰れない白鳥

2019.05.15 風の戯言

長橋の池に、今年も翔ベないで、帰れなかった白鳥が1羽で居た。

今度餌持って遊びにきたい。

白鳥にいろいろな話が聞けるのだろう・・・。

五月晴れ

2019.05.12 風の戯言

ひとかけらの雲もない、将に「五月晴れ」。

やすらぎの郷でボケが進んでいる。

10日、姪の邦ちゃんの葬儀に行ってきた。

病の愚痴を一言も言わず、最後まで明るくしていたという。

不覚にも涙が止まらなかった。

置かれた場所で咲きなさい

2019.05.09 風の戯言

会社の前で、花が咲いていた。

鉢植えの花かと思いながら、そのままにしていた。

今日、改めて見たら会社の建物と駐車場のアスファルトの隙間に咲いた花。

置かれた場所で咲きなさい。
例え、石段のスキマでも花は咲く・・・と書いた事がある。

まさか、ここで咲いてくれるとは・・・嬉しいね。