唯コミュニケーション論 要約
著者 F・ジョーダン
翻訳 石 塚 修
汝ら仲間外れにされた人間は幸いである。何となれば心の温かさを知るにより。
-聖オサム伝 序章より-
翻訳者まえがき
古来、世界の本体を精神に求めたプラトン以来の「唯心論」、物質の根源性を主張するマルクス・ヘーゲルの「唯物論」が哲学の基調になっていた。しかし新しい千年紀を迎え、人類が産業革命を経て初めて到達した「幸福の世紀」の価値観を説明し得る哲学はF・ジョーダンの「唯コミュニケーション論」を於いて他に見あたらない。彼は宇宙系帰化人らしいのだが、本人の記憶が曖昧なので真実の生星は謎のままだ。何処の馬の骨であろうと、我々にとって知ったこっちゃない。
我々の視野が狭すぎて、原著は一般の人間にとっては一見理解不可能な言葉の羅列でしかないが、「あとがき」で彼が言っているように執筆時酷い酩酊状態で呂律が回らなかったせいであり、あの朦朧としたハイな気分になってみれば解る奴は解るというのは正しい。バカな話だが…世の中そんなモンだ。
殆ど意味不明な絶叫のような彼の文章を私なりに翻訳してみた。山本七平氏の苦労を再体験するようで何やら楽しそうな予感があった。何しろ翻訳者であり解説者である私には何の責任もないのだから…
第1章 要約すれば
宇宙人の中で地球上の人間ほど不可解な行動する生物は他に類をみない。私は長い間彼らを観察し続けることにより、殆ど意味不明な行動原理が少しづつ理解できるようになった。人類が誕生し、やがて文化的な生活を始めた数千年前から現在までの、気の遠くなるようなこの間の彼らの行動を説明できるものは唯心論でも唯物論でもない。甚だ疑問なのだが人間の「進歩」と言う概念は唯物史観で説明できるほど単純ではないし、全ての生物は遺伝子の乗り物でしかないとするドーキング博士の遺伝子論や竹田久美子の面白解説は単にスケベ話でしかない。断っておくが「スケベ」とは遺伝子に精神を乗っ取られた地球上の哀れな人間達の事である。成る程人間は頭に性器を埋め込んではいるが、そんな奴らの方が実は多いのだが、世界的な遺産と言われる「源氏物語」も見方に因れば「スケベ物語」なのだが、しかし人間にはそれだけでは説明しきれない行動が多すぎる。それに人間は24時間Hしてるわけじゃないし、新井白石の御母堂みたいに灰になるまで性欲があるわけじゃない。
御存知のように私は経済学者であり企業人でもあります。みんな半端だけれど…。いわゆる経済人として人間の行動を観察したときに、特に日本人種の海外旅行時のあの喧噪を観察してみると、自分の頭の中がシッチャカメッチャカになってしまう。何故初めて訪れる土地の風景も歴史的な遺跡も見ようとはせずに土産を買いに走るのか? 乏しい財布の中から、隣近所から会社の人達にまで、自分のものは買わずに、土産物を買いまくるのは何故か? 単純に好きな(変な)ものしか買わない自分の性癖からすると卒倒するほど気色悪い。何故自分のためにお金を使わないのか?
しかし、「土産物研究家」として脳にアルコールを叩き込んでよくよく観察してみると、日本人種の行動原理は他人とのコミュニケーションを希求してのものだと思い当たる。考えてみると、人間は自分の誕生の瞬間を知らないし、この世に生まれた意味も知らない。食べ物を口にし続けなければ活力も生命も消えてしまう危うさの中で、内面の宇宙である自分の「心」も知らぬままに人は生きている。気が付けば身近な人との距離も以外に遠く、広大な砂漠に一人残されたような寂しさに苛まれる。淋しさを癒すものは同じような、心象風景を持つ人達と一体化したコミュニケーションだけ。 それも、触れたかなと思うと直ぐに遠のいてしまう風のような存在。存在と呼ぶにも希薄すぎるその瞬間を、少しでもつなぎ止めておかなければまたあのブラックホールに吸い込まれてしまうようなあの恐怖感。全てはコミュニケーションを求めての行動として説明できるのだ。例えば何も渡さずに正月のハワイの楽しさを語ったら、多分水をぶっかけられてしまうだろう。その前に、何でか知らないが、ハワイのチョコレートでも土産にやればジョンギにでも愛想笑いを浮かべながら話を聞いてくれる。一瞬の優越感。幻の一体感。
20世紀後半になって情報通信と交通手段が飛躍的に発達し、人は多くの人と接することが多くなった。人生に於ける単位時間あたりの接触する人員数が飛躍的に増えたと言っていい。これは特定の人に接する濃度の希薄化を意味する。家族や学校の崩壊。人は益々孤独になり、孤独に耐えられない不幸な人達がその存在の根源に迫ることなく右往左往している。人は本来孤独な存在なのだが、それに耐えられずに人とのふれあいを求め一体感を確認している。「みなさぁーーん、最高ですかぁー」
第2章 要約したら
我々は自分たちの棲み家である地球までもが人間の心と同じように以外と傷つき易く脆いものであることを知った。世界が単一の社会に近づき、世界と地域、文明と文化、社会と個人、外的要因と内なるもの。その辺を整理して認識しないと、またまた混乱の世紀を迎えてしまう。それにしても「20世紀の映像」に残されたように、何と過酷な時代を生きてきたのだろうか。意志の疎通を欠いたばかりに、自分の意志を旨く伝えられなかったために、そして一人ひとりがそれぞれの価値観の中で僅かな時間を精一杯に生きていることを理解できずに、人は何と遠い回り道をしてしまっているのだろうか。
一見不可解な人間の行動原理はただコミュニケーションにある。唯コミュニケーション論と命名した次第である。この人間の弱さをターゲットのして21世紀のビジネスは爆発し続ける予感がする。産業革命に次ぐ情報革命とも呼ばれているものが既にスタートしている。たまごッチ、ピッチ(PHS)、ケータイ、或いはインターネットなど情報(情=心、報=伝える)分野の進展はまだまだ続くだろう。現代に於ける人間存在の危うさと淋しさを知っているものだけが真に理解できる世界なのだ。
しかし、本来孤高であるべき人の「ブッチホン」なんてのは、あれは何なのだ?
以下次号に続く。(刊行未定)
不信の構造
柏崎市加納 石塚修
原発のメンテナンス現場から沈痛な呻き声が聞こえてきている。震源は友人の会社であってその点は極めて個人的なの話なのだが、同時に地域としても根元的な安全に関する問題が内在している。
原発のメンテナンス現場で、今何が起きているか聞いていますか。
プルサーマルの問題も平沼経済産業相が柏崎刈羽原子力発電所を視察し、何となく「国もようやく本腰を入れ始めたか」との感もあり、一件落着が近い雰囲気が漂っている。しかし、刈羽村の住民投票の結果が意味するものとは、大臣が乗り出したから直ちに解決するようなそんな簡単な「不安」ではない。経済にも深く関わる問題だけに、長い間封じられてきた行政と東電と自分自身に対する不信感がマグマのように吹き出したと言っていい。固定化した賛成・反対の相互不信の中で、不毛な討論だけが飛び交い、地域に「不信」が澱のように沈み込んでいる。行政と東電は血の出るような説明をしてきたのか。商工会議所は血の出るような議論の末に「賛成」したのか。我々は自ら納得するまでの情報を集め、勉強したのか。自分自身に照らしてみれば、いずれも「NO!」であったように思う。
私は先人たちが血尿の末に下した結論に従う。但し、自分の目は失わない。
この国の技術水準からいえば大きな事故の心配は無いだろうと確信している。ただ私が危惧を感じるのは、マスコミ報道と現場の直向さとのギャップだ。人は病気になり、機械は疲労する。だから医療やメンテナンスが必要となる。治療・保守と事故の区別のない一方的なマスコミの「事故報道」に現場は何時か無力感に陥らないか。仕事への熱意と誠意が失われた時、「システム」は崩壊する。取り返しのつかない惨事が起きなければいいが・・・。
その恐れから私は何年も前から原発サイトの「映像による情報公開」をお願いしてきた。その手段としてのCATVの実現を夢見て、自分の非力も省みず何年かの無駄な努力もしてみた。「明るい昼間に、お化けの出た例しはない」と。自ら正しいと信ずる現場のリアルタイム映像は格段の説得力を持つハズである。この情報化の時代に、直接我々に「生のママの映像」で話し掛けることなしに、何故マスコミとの不毛な戦いを続けてきたのか、不思議でならない。
もうひとつの不安は冒頭の「現場からの呻き声」だ。経済の国際化により「国策」である原子力発電事業所もコストカットが至上命題になっており、あらゆる知恵を絞り「無駄」を省くためにどの企業も死に物狂いの努力を強いられている。しかし、「何が無駄なのか、何がコストカットの対象なのか」と私は思う。大幅なコストダウンを要求されたとき、何をどう合理化し何処をカットするのか。組織にとって一番痛みが少なく、安易な方法は外注費を削ることになる。下請けに選べる道は多くない。しかし、最先端の現場を担当している下請けは実質的な品質保証を強いられながら実働時間は不安定になっている。メンテナンスのサイクルは長くなり、しかも作業は短期間を要求される。仕事が不定期になり実稼動しか下請け賃金の対象にしかならず、高度な技能集団が待機保障もないとしたらどうなるか。ある経営者は空き時間の有効活用で苦悶し、またある経営者は当座の作業員の頭数だけ揃える。経済原則から言えば経営は常に結果責任であり、後者を不誠実とは言い切れない。しかし、誠意ある有能な現場技術者が安心して仕事に打ち込める生活保障体制と評価制度が無いとしたら、そして地域と企業が次世代の優秀な技術者を育てられないとしたら・・・。原発現場の心の空洞化。そのことにより原発のメンテナンス現場で何が起きているか。
最小の経費で最大の効果。これは経済原則だ。しかし、安全を守るためのメンテナンス作業が、現場の経費実体を無視したコストカットに晒されているとしたら「安全」には限度がある。必要な経費は削除すべきではない。どうしても経費削除しなければならないとしたら、現場から遠い間接経費からではないのか。現場の技術評価と技術屋の心を無視していたら必ず取り返しのつかない事故が起きる。
東京という世界最大の都市のために安いコストの電力を提供することに異論はない。しかし、そのコスト削減のために、この土地に生き続けなければならない我々が不安に晒されるとしたら、そのシステムは間違っている。経済とは共同体の全員が僅かな時間の人生を全うできるシステムのハズだ。あえて暴言を吐くならば、柏崎刈羽原子力発電所を地元自治体で接収し、ここに住み続ける企業と技術者で運営し、不安の根源を絶ち、名実ともに運命共同体として孫子の代に伝えてゆくしかないのかも知れない。「信なくば立たず」信なくば、その企業は地域に存在する価値が無い、と思う。
地域の信頼を呼び寄せるために下記の提案をしたいと思う。
1. 地域技術会社の採用による安全性の確保
2. 映像等による情報の公開
3. 電子入札による物資・サービスの条件付き一般競争入札制の採用
苦境にも関わらず、与えられた自身の業務に誠実に対処している現場技術者への敬意を込めて、この一文を書いた。御批判を乞う。
Boston
石塚 千恵
1999年3月6日、私がボストンにはじめて来た時、ここはまだ雪が降っていた。新潟に降るような湿気の多いベタベタしたものではなく、それは綺麗なさらさらのパウダースノウ!空港を降りたときの肌を刺すような寒さは未だに忘れられない。迎えに来てくれていた車に乗りこんでからも10分以上は震えがとまらず、この寒さの中で生活できるのかと気が遠くなった。
そして緊張しながらついたホームステイ先のマザーは金髪碧眼のおばあちゃん。体もリアクションも大きく、典型的なアメリカ人であった。ちょうどその日はマザーの息子の一人の誕生日でお家はとてもにぎやかで、ホームパーティなんてさすがアメリカ!!と感動したものである。
とにかく私は英語が全くできなかった。もともと英語が好きで留学しようとしたわけじゃない。高校の時なんて268人中267番の成績をとったこともあるくらい。(親にはさすがに言えなかった。)
高校生の時、私は自分が何になりたいのかよくわからなかった。目的がないから受験勉強にも身が入らない。まだ17やそこらで自分の将来を的確に見出すなんて容易なことじゃない。進路調査はどんどん進んで行くし、大学を決めるべき時も迫ってくる。結局私は中国語に少し興味があったし、指定校推薦で簡単に入れるからと地元の4年生大学に進むことにした。
大学生なんて名ばかりで、学校なんてほとんど行ってなかったようなものである。毎日遊び放題で夢もなく、その頃は周りのトラブルに巻き込まれることも多くて私は精神的にとても疲れていたと思う。
冷静に自分を見つめなおした時、入学してから成長したと言えるものがひとつもなかった。このまま大学を出て何か得られるものがあるのかと考え、退学を決心したのが去年の夏の終わりだった。高校の指定校で入った学校だし、親もPTA関係でかなり大学と接していたので言い出すのはとても勇気がいったけれど、両親ともすんなりと私が第2の道を踏み出す事を賛成してくれた。
この学歴社会の中でせっかくの大卒の肩書きをなくすというのに。
私は柏崎で生まれ育ち、この小さい平和な街の外で生活したことがなかったので自分の価値観の狭さにいつも怯えていたし、東京に出て行った友達にコンプレックスも持っていた。そして私が考えた事は一番辛いであろう環境に自分をぶち込むことだった。私にとってそれが英語圏の国で生活する事であり、私の留学の動機である。
こっちへ来てから3ヶ月、アメリカ人の家庭にホームステイをしていた。ホストマザーは敬謙なクリスチャンでとても優しいおばあちゃんだった。夕食の前のお祈りも毎週日曜の朝の教会通いも私にはすべて初めての経験。ボストンのダウンタウンから少し離れたその街は、白人のお年寄りばかりで静かなところだった。サイレンが鳴り響くとしたら、隣りのおじいちゃんが倒れた時くらいだろうか。
今はボストンでも割と治安の悪い地域に住んでいて、周りには黒人しか見当たらない。歩いているとよく黒人の10代の男の子達にからかわれたりする。友達にはかつあげされそうになった子もいるし、石を投げられた子もいる。彼らの長い白人からの差別のはけ口が私達に向いているとしか思えなくて、一時期は異様な程の敵対心や嫌悪感を持ったりもした。友達になってしまえば彼らはとても紳士的で優しいのだけど。
私は日本に住んでいる頃は人種差別なんて真剣に考えもしなかったし、その言葉は黒人の人達だけに向けられるものだと思っていた。そしてこの先進国アメリカに未だにその差別があるなんて思いもしなかったものだ。白人の下に黒人、その下にアジア人という考えの人も少なくはない。とにかく想像以上に同じ人種同士の連結が固い。それがいいことなのかどうかはわからないけど。
アメリカでの日本の印象と言えば”寿司”と”チキン照り焼き”ぐらいなものである。日本食の評価は驚くほど高いが、その他についてはあんまり・・・といった感じだ。一部の人達の間では日本のアニメが人気ではあるが。恐らく日本の首相が今は誰なのかなんて気にしてる人はあまりいないだろう。
英語は日本語に比べて語数が少ない。日本語で書いた文章を英訳しようとすると適当な言葉が見つからない場合が多い。平仮名、片仮名、漢字と3種類の文字、しかも漢字にいたってはいろんな読み方もある。日本語って難しいんだな・・・と改めて実感している。日本人は一つの言葉をいろんな言い回しやニュアンスで表現できるが英語にはそれがない。
彼らはストレートなモノの言い方しかないし、自分の感情もまっすぐに表現する。司馬遼太郎さんが本の中で”日本人は察する力が強く、欧米人にはそれがない”と言っていたがまさにその通りだと思う。言葉の裏がないので、変に勘ぐらなくて言い分つきあいは楽だが、言わなくても気がついて欲しい時なんかは期待しても無駄だ。
半年通った語学学校を卒業する時、私は思わず感情が高ぶって泣いてしまった。先生たちは口々に「心配しなくていいよ、大丈夫だから。」と声をかけてきた。別に私は心配して泣いていたわけではないのに。
さらには南米から来た友達が不思議そうに私の顔を覗きこみ、「なんで泣いてるの?」と単刀直入に聞いてきた。クラスメイトの日本人の女の子はもらい泣きをしてしまい、彼女もまた聞かれていた。そして最後にはみんな肩をすくめて「日本人て変なの。」
確かに、金縛りというのは他の国にはないらしい。モウコハンがアジア人だけというのも私は知らなくて驚いたのだが、(だから欧米人に「まだケツが青いな。」なんて言ってもかれらには???という感じ) 金縛りは他のアジアの国にもないらしい。私達にとって幽霊を見たなんてゆうのはよく聞く話だが、彼らにはポルターガイストのほうがよくあるらしい。ゴーストを見たことがあるなんて言ったら鼻で笑われるだろう。
でも私は舞い散る枯葉を綺麗と感じられる心を持てた日本の文化に感謝するけれど。
違う土地で生活することによって、柏崎の良いところがどんどん見えてきた。
今は佐渡島がぽっかり浮いてる海や友達やお気に入り喫茶店が恋しくてたまらない。でも帰る場所があるからこそ、私は異国の土地でがんばれているのだと思う。今年の新潟は暖冬だと聞いた。私はボストンで札幌並みの寒さを経験することになる。
来年の日本海からの風なんて私の敵じゃなくなるはずだ。
痔鎮祭
風派同盟 祭酒 石塚 修
別に自慢するほどのことではないが、俺、痔を切った。
術後2年近くを経過し、多少「緩み」の嫌いは残るが概して言えば快適である。鉛を背負ったような肩こりも無くなったし、褌が汚れることもなくなった。もっとも、肩こりの原因は歯の噛み合わせ不良でもあったらしいのだが・・・年の初めにケツを治し年末に歯を治療して、なにか「キセル」のような一年だった。それは兎も角、夏のゴルフ場で尻から脳天に突き抜けるような痛さもなくなったし、電車の中でよそ様に理解不能な顔の歪みを見せることもなくなった。それがケツの為になるからと、会議中に肛門括約筋の運動する秘かな楽しみも今は遠い思い出になっている。
以下、私の拙い「闘痔記」である。食前の方は食後30分を経過してからにして欲しい。読みたければ、の話だが・・・。
私が痔主なったのはかれこれ30年くらい前のことになる。全て歴史の始まりは妖しげな伝説と欺瞞に満ちていて、正確には何時に始まったのかは定かではない。多少の存在感から、次第に強烈な自己主張を繰り返すようになり、やがて「お痔さん」はエラクなつてしまった。イボ痔で誕生し、キレ痔に成長し、やがて痔瘻様におなりになる長い間、俺は常に邪魔者扱いし労りの声一つ掛けてやらなかったようだ。「生涯の腐れ縁」、何やら匂い立つような言葉だが痔は文字通りの(しかし、まぁ誰が考えた文字なんだろうね)死ぬまで治らない病と覚悟はしていた。一病息災と言う、まぁそれも結構じゃないか、と。
しかし、テレビを見ながら馬鹿笑いしている私の顔が、突如夜叉に変化する。その不可解な表情の変化に疲れ果てた妻は俺の病院送りを企み始めた。支離滅裂な亭主を動かす最後の手段とばかり、行兼の兄貴に直訴に行った。会社経営をしていたら入院なんてそんなに簡単なことじゃない。あれこれ言い逃れをする弟に兄は一族の長者としての威厳でボソッと言った。「放っておくと人工肛門だぞ」。この一言は電撃的衝撃的決定的な説得力があった。その言葉の恐怖感に錯乱し、「俺のケツに真鍮のバルブが着く?」 建設業経験者として滅法にリアルなイメージが狂乱に拍車を掛け、前後のことを考える余裕もなく長岡に走った。
私が「ウンチ恐怖症候群病棟」と呼ぶその病院は個人経営としては大きく、当時76歳の院長自ら陣頭指揮する「肛門科」は地域の信頼を集め、待合室はいつも患者で混み合っていた。主治医(主痔医?)の紹介状を手渡し、神妙な気持ちで診察に入った。型通りの問診と診察の後、いきなり「立派な痔だねぇ」とケツに響くような大きな声で院長は言った。思わず落ち着きを失ってしまったが、まぁ出来れば小声で話して貰いたい内容なのだ、と俺は思う。何十年も人のケツを診つづけてきた医者に「痔有党」独特の面映ゆさを忖度するよう求めちゃいけないのだろう。「おい先生、この世の中で俺様のケツ見た奴ぁ、お前ぇさんがたったの二人目だ」俺は内心で伝法な啖呵を切り、覚悟を決めた。断っておくが一人目は母親のハズだ。
「名医」とは老先生のような人を言うのだろう。痔状を丁寧に診察し、手術の難しさを説明し、自分の人生を賭けた職業にまつわる爽やかな自慢話もしながら患者を安心させて手術台にあげる。お年を考えてかさすがに執刀はしないが、全幅の信頼を寄せた若い先生に付きっきりで手術に立ち会っている。半身麻酔で、遠くで工事しているような振動だけが伝わってくる。モニターで手術の様子を見させて欲しいと懇願したが、いくら名医でもそんなバカな患者には付き合っていられないようだった。
手術は簡単にすんだ。しかし、本当は簡単ではないのだろう。考えてみればクソを千切る重要な役目の肛門筋にメスを入れるのだから、間違えば開き放しになる。人生の幸運と不運の分かれ目は至る所にある。
手術翌日には御飯を食べ、風呂にも入った。些か驚いたがその方が傷の治りも早いとのこと。とは言え飯を食えばウンチは出る。その出口は「生キズ」なのだから当然イタイのだ。痛いのなんのって目から涙、鼻から洟汁、口からヨダレ、トイレで何度か失神しそうになった。しかし、一歩廊下に出れば何故かお互いに目を会わさぬようにしてのそぞろ歩き。お互い背中に同病相あざ笑う視線を感じている。「ウンチ恐怖症候群病棟」はいつもそんな奇妙な明るさに包まれていた。
除夜の鐘を病院で聞き、元日はベットで家族と新年を祝い、2日に退院した。年末年始を病院で過ごす貴重な体験だったが、時にはこんな経験も良いもんだ。何事かと見舞いに来てくれた人達も痔ネタで盛り上がり、ケツから血が出るほど笑わせておいて「おだい痔に」なんて下らぬ駄洒落で帰って行く。他の病人には申し訳ないような、笑い話のような入院ではあった。
後日談だが、保険の見舞金が下りたけれど私の痛み料は雀の涙。悔しかったので社員全員で一晩「じょんのび村」で飲んで使い果たした。「俺のケツが稼いだ金だ、遠慮しないでやってくれ!」
入り口と出口の差でしかないが、口はグルメを味わったり、人と話したり、また時には意外なお役も受け持つが、出口は日々クソを捻り出すだけで何の不平も言わず一生日陰者の身で甘んじている。感謝の意味もあり、傷も癒えた己が肛門をデジカメで撮ってみた。何と神秘的な、何と可愛いい、何といじらしいお姿なのだろう!
悪友達が退院祝いを企画してくれ、名付けて「痔鎮祭」。40日振りの酒が心地よく、治りかけのケツが歓喜の悲鳴をあげていた。
健康は何にも勝る宝です。向寒の折、御痔愛下さりませ。
老年よ、大志をいだけ!
老年よ、大志をいだけ!
Old Boys, be ambitious
風派同盟 祭酒 石塚 修
子供達は自分の人生を歩き始め、妻には見放された。考えてみれば飯を作らせたり、子を産ませたりと随分勝手なことをやってきた。だから今更なのだが・・・
何時の間にか「還暦」を超えていた。いつまでも「アンチャ」だと思っていたが、そうもいかないらしい。この俺が「高齢者」?! 冗談じゃない!
今更ながらなのだが、60年と言う時の流れの激しさに呆然とする。微かな敗戦の衝撃の記憶、集団就職で故郷を離れてゆく「柿の木坂」のような友人達との別れ、安保闘争や学園紛争、日本列島改造論、バブルとその終焉、失われた10年・・・・。
しかし、この60年は多難な時代だったとは言え、世界史的にも例のない「幸せな時代」だったのではないかと思う。夢を追求できる自由があり、真面目に努力すれば報われる、そんな時代が、そんな国が他の何所にあったのだろうか。
親の世代は赤紙一枚で、営々とした努力も才能も未来も全てチャラにさせられ死地に送られた。そんな不条理から比べたらとんでもなく幸せな世代なのだろうと思う。
また若い人たちを羨ましいとは思わない。幸福の尺度として比較しようもないが、「暗闇」を知らない世代は明るく陰影がない分、人生の深い味わいを知らないのではないかとさえ思うこともある。
我らの時代には「夢」もあったし、プロジェクトXもあった。自らの力で手にした鳥肌の立つような感動を記憶の中にいくつか残している。
幸か不幸か、俺はまだ戦場に居る。45歳で建設業からIT業界に飛び込んで20年近くになり、この間の情報環境の変化には戦慄さえ覚える。しかしまだ変化は終わったわけではない。むしろこれからだと思っている。味気ないと思われているデジタルの世界も、コンピューターの性能、利用技術、通信速度等の更なる革新により、多分、よりもっとアナログ世界に、言い換えればもっと人間に近づいてくるはずだ。
人間にこんな化け物みたいな電子頭脳を与え神は人間に何をせよと言うのか、何時もそんな疑問をもち続けてきた。決して殺戮の為だけではなかろう、と。しかしもうすぐ、きっと素晴らしい答えが出て来るはずだ。そのことが楽しみであり、この業界に身を置かせて貰える事が何より嬉しい。
動物的な感だけを頼り生きてきたが、情報が多すぎれば時代に流され、少なすぎれば置いて行かれる。本質を見分ける力が必要なのだろうが、それとまたビジネスの季節を判断するのはもっと難しい。しかも風の変化の兆しを人に伝えるのは、これは至難の業に近い。思案し、迷い、堂々巡りの中で人生の時は確実に消耗している。
時折、何か大きな忘れ物をしてきたよう不安に襲われる。俺はこのままで良いのか、と。
やがて老兵は消え去る時期が来る。ボロ屑になるまで頑張るのも一つの美学だが、リタイヤし初めて本当の人生があるのかもしれない。家族を養うためでなく、会社の繁栄の為でなく、地域のためでなく、自分のためだけの人生があるのかもしれない。
残された時間はもう少なくなっている。しかし、「健康優良爺」でさえあれば、もう一勝負は出来るビミョーな時間なのではないか。60歳は気持ちも、身体も昔で言えば40歳台。まだまだ若いのだ。「うっ、ふふふ」なのだと、世間様にもう一泡吹かせて、あ、いや、もう少し人生の味付けをしたいものと不埒なことも考えている。
老年よ、大志をいだけ! なのだ。
老年は自由である。いや、自由になれる、と俺は思っている。試しに幾らかの財産持って現状から逃げ出してみるのも一興かも知れない。少しの間でいい、自分が何者でもない縁もゆかりもない土地で自由に過してみるのはどうだろうか。痴呆症と間違えられ、強制送還がオチかも知れないが、一度自由を味わった心と身体は一味違った精彩を放ち、違った老後を与えてくれるハズだと思う。
人生は不思議だ。願ったことは実現するし、時には天候すら味方をしてくれることもある。しかし、願わないことは何も実現しない。どんな時にでも前向きに生きる、ってことは素晴らしいことなのかも知れない。
バブルの崩壊以降年金など今後の経済不安が増している。だけど「お金」が無ければ何も出来ないと言うのは寂しい話だと思う。お金がないから空想が膨らみ、夢が生まれ、実現する為の努力が楽しくなり、一杯の酒に友の輪が広がり、人生にオーロラが輝くのだとも思う。
考え方次第で人生は如何様にもなる。「感情」と「心」の違いに気がつけば簡単なことだ。そして夢が不思議なエネルギーを生み出すことも。だからどんな夢でもいい。読み残した本を読破すること。人生の意義を考え直してみること。旅の空で新しい出会いを楽しむこと。地域のために働くこと。新事業にチャレンジすること。幾らでもある。
成功する必要はないし、稟議書を書く必要もく、管理者も居ない。現役の時には願いようもなかった「自由な時間」が山の様にあるのだ。
老年よ、大志をいだけ! 未来は我らの為にあるのだ