大黄河
春の訪れた庭を片付け、小さな焚き火を燃しながら大黄河を聴いていると心が満ちてくる。気の遠くなるような時間の中で、人は無意味に近い営みを繰り返しながらも健気に生きている。さあ、元気を出して頑張ろうよ、大黄河はそんなことを語りかけてくる。
音楽には不思議な力があるんだよね。
先週一週間は体調が最悪だった。多分人を憎み、怒りが頂点に達し、心のバランスが崩れていたせいかもしれない。シーザーは「寛容」を説いた。人を信じ、許すことが大切なんだろう。あくまでも自分にとって。
6日は新潟産業大学、新潟工科大学新入生の歓迎会を暖かい雰囲気で開催できた。参加者は学生・教授・市民合わせて600人。広い会場を一杯に埋め尽くし、交流の輪が広がった。こんなことから縁あって柏崎を選んでくれた学生達がこの町を好きになってくれたら本当に嬉しいと思う。
夕方7時から会社の創立20周年目のパーティを開いた。少し気取って生バンドの友情出演もあり、この20年を見守り続けてくれていた副市長さんも来賓で出席して頂き、温かいいい会になった。
創業時、自宅から50CCのバイクで通い続けた妻は社員のにくい演出に目を真っ赤にしていた。彼女の努力が実り始めている。
そして昨日は、その妻の還暦。娘は婿を伴い、倅は東京から駆けつけ楽しいひと時を過すことができた。
歩いてきた道は曲がりくねった道だけれど、幸せだった、と言う一言に少し後ろめたさもあるが、嬉しいと思った。
大黄河は中国奥地に源を発し、モンゴルを迂回し急流となって山を削りやがて大平原に出る。人の心の旅路は、一筋の川の流れに似ていなくもない、と司馬遼太郎はそう言うのかも知れない。
黄砂舞う日々
黄砂の降る音が聞こえるほど山も霞んでいる。
中国大陸、モンゴルの砂漠から飛んでくる。ロマンだなぁ。
犬の散歩しながら黄砂の見物する。思いを中国に馳せている内に半藤一利の昭和史や文春4月号の小倉庫次侍従日記や鹿島昇の怪しげな解説本を思い出してしまった。失敗の本質、山本七平の「空気」なんてのを頭の中をごちゃ混ぜにしてガラガラポンすれば昭和史と言う上から下まで無責任な当時の日本の姿、いや立派な遺伝子のために現在もこの渡世を見えなくしている無責任な迎合社会が見えてくる。
右翼はテロをしなくなったし、左翼は火炎瓶を置き忘れてきている。「わるうござんした!」と腹を切るやつもいなくなって、世の中みんな植木等になってしまった。
夢や希望、ナンテ言葉はもう死語になり、言葉に命を賭ける情熱が失われた。
恥知らずがボリューム一杯に上げて、自分でも信じていないことを山に説教している。
言葉が行動から遊離し、誰も信じていないことをテレビも役人も虚ろな目で単調な言葉で吐き出している。
何かおかしいぞ?
大きな地震が来る前に、日本人は狂うのだそうだ。石黒耀の本にそんなことが書いてあった。日本の社会変動は地震のパワーで起して、てぇへんだーって人間が後からついてくる。ええじゃないか、ええじゃないかと騒ぎ出す?
下天は夢ぞ、ただ狂へ! 誰が言っていたかな・・・
写真は4月1日午後
八石山が黄砂で霞んでいる。これもまたいい風景。
戦い済んで日が暮れて
夕方から新潟の会議を二つ終わらせて、古町に寄って最終に「きたぐに」で家に帰る。新潟発22時55分、新潟はまだ宵の口でも車内はもう夜中。疲れ切った乗客の一人となってシートに身を沈めると深いため息が出てきてしまう。
長岡から東京発最終便の仲間達が乗り込んでくる。闘い疲れて、でも生き延びて家に近づいた安堵感が表情を緩めている。
人は何故闘うのだろう?
戦いは人を疲れさせる。
闘わなければ、人は楽なのだろう。
戦いを放棄すれば、敵が攻めてきて殺されるか奴隷になるか、只一度の人生を自由に生きる選択権は簒奪される。
心の平安は、戦いに勝ち残った、その僅かな時間だけしかない。
もう眠い。何を書いているか判らない。寝る!
能登沖地震
日曜日の朝を、何時もの様にグダグダとベッドの中で本を「見ていた」らいきなりズシン!と来た! 横揺れが長かったので咄嗟に「震源は東京!?」かと思った。
能登、石川、富山には多くのお客さんが居る。担当が客先の安否の確認を取り続けている。経営品質で顧客本位を説き、自分達で解っているつもりでも直ちにこんな行動を取ってもらえるのは社長としてありがたい。
近くなら客先を回る、遠くなら電話で様子を聞く、サービス業としては当然のことなのだろうが、ビジネスとしてだけでなく被災地の知人の安否を気遣うことは人間としての温かさのように思う。
現代は、人としての温かさが何よりも大切なんだろう。
写真は3月23日、柏崎の岬館からの夕陽
この夕陽の先に能登がある。
KISNET10年 古いメモ
KISNETの10年
インターネットの激動の中で
創風システム 代表取締役 石塚 修
柏崎でインターネット「KISNET」を開局して10年が過ぎた。
正直言えば、この10年の間に何があったのか良く覚えていない。決して痴呆が始まったわけでもなく、ボケは天性のもので・・・(何を言わせるのか!) とにかく新しい技術と格闘している内に10年が過ぎてしまった。その前のパソコン通信の時代を入れると約20年、
この業界がドッグイヤーと呼ばれる通常の世界の7年分だとすれば、140年この世界で生きたことになる・・・もう、南無阿弥陀仏の世界でっせ!
さてさて、平成7年12月24日、クリスマス・イヴに地域への最高のプレゼントをと、思いついたインターネットの上位回線速度は45Kbps、現在は1Gbps2回線だから2万倍にはなっている。約20年前、パソコン通信を始めた時は300bpsだから100Mbpsとして・・・解り易く言えば45Kbpsが45センチの畦道だとすれば、現在各家庭に入り始めた100Mbpsの光ケーブルは1000メートルの道幅だと考えればいい。パソコン通信の300bpsは3ミリ・・・およそどんな進化なのか理解して貰えると思う。
文字データを送るメール機能だけでもう限界に近かった通信は、私にも理解できない世界へと拡大している。
インターネット販売は取引高 兆円を超え、インターネットの普及で証券取引は一日取引40億株に近づき、旅行やオペラの予約は勿論、映像を使った医療相談、TV配信などあらゆる方面でインターネット無しではいられなくなっている。
携帯電話と組み合わせれば、もう本当に何所に居ようが関係は無い。名刺にはメールアドレスと携帯番号だけで用事が足り、郵便番号や住所なんて不要なのかも知れない。一度、信頼のネットワークが出来てしまえばもう柏崎に、日本に居る必要が無いのだ。
通信インフラも技術も利用方法も素晴らしい進歩を遂げ、道路・電気・ガス・水道などのライフラインの最も重要な価値を占めるようになった。他のライフラインは停まっても代替が利くが、例えば発電機やポリタンクで水を運ぶ等可能だが、情報通信だけはそう簡単にいかない。中越地震でその重要性を嫌と言うほど知らされた。情報のないのは暗闇より不安だ。
便利と言う世界に何の意味があるのか
が、ここに来て困ったことが起きてきた。生来のへそ曲りがかま首を擡げ始めたのだ。
雅子妃の父君小和田氏が柏崎高校で講演された時、明治維新以降日本人は精神の開放が未だなされていない、と話された。答えはわかるのに言葉にならない、そんなもどかしさがあったが最近どうやら回答用紙に書けるような気になった。
要は
テレビや新聞等のマスコミは反吐が出そうなほど同じ価値観で報道し、我々もまたそれを受けて隣人との友好よりも有名人の生活の断片をあたかも共通の友人のことのように話題にし、小泉氏の悪魔的な手法に踊らされている。もっと異端が居てもいいじゃないか。
世の中は如何様な人生の可能になり、価値観の多様化から、日本はもう多民族国家だと言い放っているけれど、どうもまだ精神の自由を勝ち取っていないようだ。
不思議なことに、人生は一回だけだ。たった一度だけ許された生、と言ってもいいのかも知れない。一方的に押し付けられた契約書みたいに、契約期限は定まっていない。
結論
それほど便利なものが充満してきたのに、人間は本当に幸福になったか、と言う事。