冬の晴れ間に

2009年12月22日 風の戯言


 もう直ぐ「平成21年」、西暦「2009年」が終わる。
 日々戦いに明け暮れ、時間に終われ、この年に何を為したのか・・・記憶に残るものはない。もう少し意味のある生き方もあるのだろうけれど、まぁ、こんなもんだ。

 今夜は建設業の時代とパソコン村時代の「仲間」というか、昔にお世話になった何人かの仲間と楽しい酒を飲んだ。本音でぶつかりあった関係と言うのは、心が通じ合っていて、涙が出るほど嬉しい。
 「またやろうよ! 」別れ際の挨拶に男同士の付き合いは良いものだな、とつくづく思う。

 年末までもう少し、頑張ろう !

ぼんやりした不安

2009年12月20日 風の戯言


 納得できない降雪に戸惑っている。
 「挨拶」程度の雪だとタカを括っていたら一丁前の雪になった。でも、今日は青空が見えたりして、やはり不思議な気候だ。

 芥川が「ぼんやりした不安」と自殺した昭和2年は1927年。大恐慌はその2年後に爆発する。サブプライム問題の分析も対策もないままに、ジョーズ・ソロスの警告を嘲笑うように商業用不動産バブルが弾けようとしている。穴吹工務店の倒産劇の裏側には複雑な人間模様がありそうだけれど、これも単なる「1件」に過ぎなくなりそうだ。
 経済は「新しい経済学」が出現しないと救いようのない時代に突入しているのかも知れない。ケインズ以来、それは見えていないのだろう。となれば、自分の身は自分で守る知恵と力を備えておかなければならない。
 「ぼんやりした不安」が情報化により未来が見えるような不安に変っている。未来に挑むバカさ加減が今ほど必要な時期はないのかもしれないが・・・勇気と知恵。
 

人間の幸せとは何か

2009年12月14日 風の戯言


 「ものやお金があると幸せだと思いますか」住職は続いて
 「人間の究極の幸せは四つです。
   愛されること、ほめられること、役に立つこと、必要とされることです。
   働くことによって愛以外の三つの幸せが得られるのです。
  その愛も働くことにより得られるものだと思います」

 鳩山総理の所信表明演説の一節です。
 法政大学坂本教授の「日本で一番大切にしたい会社」で紹介されている、障害者を受け入れて高い業績を上げている「日本理化学工業株式会社」のことを感動的に述べています。

 働くことは生活の資源を得ることですが、仕事を一生懸命にやることで得られることの大きさと多さを改めて感じます。至誠天に通ず・・・そうなのかも知れません。

 雪が降り始めた。
 長い冬が始る。

坂の上の雲 (2)

2009年12月13日 風の戯言


 今日もNHK「坂の上の雲」を夢中になってみた。
 多分、歴史的なメッセージをこめているのだろう。最近にないドラマ作りの真剣さが伝わってくる。嬉しいね。
 『文芸春秋にみる「坂の上の雲」とその時代』を読み始めていて、司馬遼太郎が大東亜戦争の軍部の失敗を日露戦争の勝利を勘違いしてしまった悲劇、教訓として捉えていることを改めて感じた。
 戦争、或いは競争は自らの眞の姿を知ることによる恐怖感から出発しなければ、いや、そうしないと情報の価値を深く感じることなく自らの妄想に突き進んでしまう危険を避けられなくなってしまう。
 経営にも言えることだ。
 いろいろ考えると臆病になってしまい、時代に対応した一歩が進めなくなる。情報が多いと迷いの中に疲れ果ててしまう。しかも、選ぶべき、選択し得る道は一本しかない。
 頑張るより他はないのだろう。

坂の上の雲

2009年12月06日 風の戯言


 社員の永井君から教えて貰って今日3回目のNHK「坂之上の雲」にのめり込んでしまった。司馬遼太郎は最も好きな作家で、特に「街道を行く」は全巻書棚に収まっている。「坂之上の雲」は正岡子規や夏目漱石の物語から日露戦争物語と2つの物語を一つにしたような不思議な本だったと記憶している。
 最近、テレビ・新聞の方向が以前と明確に違ってきたような気がする。時代が変り始めているのだろう。沖縄の基地問題も日本の叫び声を感じるようになっている。アメリカに振り回されて独立国家として本当の幸福が可能なのか、まだ明らかな声にならない地の底からの何かが伝わり始めている。

 週末には娘が娘を連れてやってくる。
 そろそろ1歳と4ケ月。雪はないとは言え12月の風の中を、家に帰ろうともしないで自宅前の公園で遊んでいる彼女に、何とも言えない嬉しさが込み上げてくる。

 最近は雲の色や形、紅葉や自然の美しさに以前とは違うものを感じ始めている。何となく懐かしく、嬉しく、花の形や水の色が良く見えるようになった、ような気がしている。
 多分、アセリが薄らぎだしているのだろう。考えてみれば今までの時間より未来の時間が確実に少なくなっている。生命を持ったものにとって、それは決して忌むべきものではなく、それはむしろ生きるものへの祝福ではないかと思い始めている自分がある。
 何時の時代でも、生きることが安楽であるはずはない。しかし、自分達の世代は歴史上稀に見る幸運な時代を生きてきたのだろうと思う。この先に何があるのか、見届けてやろうじゃないか、と今まで思いもしなかった考えが浮かび始めている。齢のせいで死に欲が出てきたのかな?