風に吹かれて(2)
ボブ・ディランがやはりノーベル賞を受けるらしい。
ノーベル賞受賞辞退のニュースを喜んでいたのだが・・・。
根性なしが!
だが、彼の詩はやはり素晴らしいと思う。
モンゴルの大地を流れる風の香りがする。
宇宙の営みのように、温かく全てを包み込むような無の世界。
静かに、静かに温かく時は流れて行く。
風に吹かれて
ボブ・ディランがノーベル賞を辞退しそうだとのニュースに、すっかり嬉しくなり彼のCDを買った。
何度空を見上げたら
人は本当の空を見られるようになるのだろう?
人々が泣き叫ぶ声を聞くには
二つの耳では足りないのだろうか?
どれだけ人が死んだら
どれだけ多くの人が死んでしまっていることにきづくのだろう?
その答えは、友よ、風に吹かれている
その答えは風の中に舞っている
世界では宗教間の近親憎悪や、資源の争奪戦争、大義のためと称する戦争が渦巻いている。そのためにどれだけ多くの人が死んでしまったのだろう。そのために、どれだけ多くの人達が故郷を追われ、生活の糧を失ってしまったのだろう。
俺は、子供達の泣き叫ぶ声を聞きたくない。
俺は、子供達が腹を空かせて泣く声を聞きたくない。
それにしても、人は何故殺し合いを続けるのだろうか?
殺し合う人達の武器弾薬はどうやって求められるのだろう?
武器商人の暗躍があるにしても、その元手は誰が、なんのために支払っているのか?
国家はなんのために「核」を持つのだろう。
一瞬にして何万人もの命を奪う「核」を、その核兵器禁止条約に、何故日本は反対するのだろうか?
広島・長崎の人達はなんのために死んだのだろうか?
フクシマの人達はなんの為に故郷を追われなくてはならなかったのだろうか?
その答えは、友よ、風に吹かれている
その答えは風の中に舞っている
老年よ、大志を抱け
75歳間近になって、やっと何かが判ってきた。
「何か」とは、要に「何が」判らなかったか、ということ。
ここに至るまで75年懸かってしまった。
あと25年しかない。頑張らねば・・・。
未完
ダモクレスの剣
海外の動乱や地震や洪水のニュースを聞いていると、今、この地でノンビリと生かさせて貰っている幸運を本当に「有り難い」としみじみと思う。
アメリカの大統領選挙を障子の隙間から見ていると、民主主義、資本主義というマジックの化けの皮がはげた、いや、ネタバレしてしまった感が強い。「小池劇場」もそうなのだろう。
人を豊かにするシステム、資本主義の下で収入格差が広がっている。ホセ・ムヒカ、バニー・サンダース、未来を予言する人達もいる。もう一度社会主義を考え直す時代になってきているのだろう。
地球というシステムにも、人間社会というシステムに大きな亀裂が入ってしまった時代なのかなとも思う。
ケネディが「核というダモクレスの剣の下で暮らしている。事故か誤算か狂気により、何時切れても不思議はない」
未完
産業の糧 ? 核
武器商人
地方紙の死亡欄
地域社会に根ざす地方紙の「死亡広報」欄について原稿を書き始めていたら、兄が急逝してしまった。
12違いの兄は育ての親であり、親分であり、人生の師匠であり、全てだった。昭和5年の生まれ、戦後の動乱期を家族のために働き続けた一方、野球や狩猟、交通機動隊、越山会にも熱中していた。
弟を本当に可愛がってくれ中学生の時に晩酌の相手をさせ、16番の単発銃を買ってくれた。調子に乗って色々なことを話したけれど、株や不動産の話をすると、「いいか、額に汗した金しか本当のお金じゃないぞ」と、そんな言葉も残してくれた。
色々なことが思い出される。曇りガラスのようなシャッターが急に下ろされ、今も狼狽え続けている。
柏崎日報の「死亡広報」に話を戻す。
この欄は、不義理をしていた知人や恩人に別れの挨拶の機会を与えてくれる貴重なお知らせなのです。
生あるものには必ず終焉の時がある。それは定めだけれど、お名前と住所と年齢を見ながら、どんな人生を送ってこられた方なのかなと思いを巡らせたりする。
自分より高齢の方に、遠くなった戦中戦後の動乱の時期をどうやって生き延びてきたのか、一度だけでも直接聞いてみたかったなとも思う。
誰もが思い悩み、迷い、哀しみ、そしてまた一瞬の幸福を宝物のように大切にして生きてきたのだろう。
ただ、自分には未だに「生」というものがよく判らない。だけど、「人の死」がやたら哀しいのだ。「人生は無」とほざいて生きてきたが、歳と共に悟りも揺らぎ始めたのだろうか?
人生は一遍の詩だという。
地方紙の下段にさり気なく載っている死亡欄は、地域社会で我武者羅に生きてきた身近な人への賛歌であり、哀悼歌なのだろうと思う。