桜満開

2006.04.25 風の戯言


 御免なすって、
 遅まきながらご当地桜満開にござる。

 中鯖石コミュニティの桜がご覧のとおり満開だ、ど。
 いやいや、やっと春になったって按配だど!

 もう連休だもんな。
 今年も季節感が半月ほどずれてしまった、ど。

健康優良爺

2006.04.24 風の戯言


 最近、体調がいい。
 朝4時まで飲んでいたり、夜の明けるまでパソコンに向かっていても以前のようにへたばらない。64歳と言う年齢を考えると無理は出来ないのだが若者のような活動が出来るとつい嬉しくなってしまう。
 絶好調の原因は幾つかの健康法と「健康イナバウワー」と名づけた背筋の圧縮法だろうか。机に向かう機会が多くなり生来の猫背に磨きがかかってしまつた。肩こりが酷く、身体も頭も重い。マッサージにかかれば馬の背のように硬く、処置なしと嘆く。
 「健康イナバウワー」は両足を外側に開き、荒川静香のイメージで反り返る。最初、息が出来ないほど痛いけれど、硬さが次第に解れ、身体が軽くなる。背中に走る血管と経絡が刺激されるせいなのかもしれない。

 健康、はいい。不健康な楽しみは健康でなくては楽しめない。歩くことが基本、なんだろう。

沖縄の夜

2006.04.23 風の戯言


 沖縄に旅をしてきた。
 今年2回目になる。今回はある仲間の懇親を目的とした観光旅行で、いい旅だった。
 旅の楽しみの一つに酒精度の上がった体を揉み解してもらうマッサージがある。観光地のマッサージは大抵おざなりのことが多いのだけれど、Aさんは本当に上手で身体の芯がほぐれるのがわかった。
 彼女らにその土地のことを聞くのも楽しみで、ディナークルージングの時の沖縄の人たちの明るさ、歌手の誘いに沖縄民謡に併せて囃し踊り船内が一つになって極上の時間が過ぎていったその楽しさと羨ましさを話した。でも、あの明るさは沖縄の現実を考えると複雑なものがあるよね、とも。

 地政学的に言えばハートランド、現実的にはユーラシア大陸の中心部分に存在する中国やロシアの膨張はいつも周辺国家の脅威であったし、現代では冷戦前も冷戦後もアメリカと言う国の世界戦略の中でハートランドの膨張を押さえ込む最前線としての日本列島があり最重要な基地としての沖縄がある。
 世界政治の現実というのは太平洋戦争の沖縄戦であり、広島・長崎の原爆であり、東京空襲でありそしてベトナムでありイラクである。つまり人の日常性や生命の躊躇なき抹殺である。何のために?

 彼女は沖縄が平和のために存在するならそれはそれでいい。ただ此処から飛び立っていったB25爆撃機がベトナムの殺戮に参加し、前線から返ってくるものは冷凍された兵士達の死体だったとき、私達はその現実をどう捉えればいいのかと呟く。とても悲しい、と。

 沖縄の音楽は明るい。
 現実を直視しきれない葛藤、言葉したらウソのなる、一瞬でもそれが共感できたらそれだけで幸せなことかもしれない。それがどれほどの価値があるのかと問われれば口篭ってしまうのだが・・・。

 写真は宜野湾市役所屋上から普天間基地を望む。グランドの先が戦闘機の飛行場。

米百俵と三余堂

2006.04.17 風の戯言


 何時の世でも教育は大切だ。
 教育が人間を作り、職業を育て、地域を築いて行くのだろう。
 地域と教育の関わりを見るとき、米百俵と三余堂は面白い対比となる。米百俵は長岡藩校崇徳館があってこその理念だろうし、藍沢南城三余堂は柏崎近郷の農村の、確か南條村は江戸期の天領だったと思うのだが、鄙びた農村のに存在した私塾である。
 藩校は御城下の俊英を教育し藩の経営に資する人材を教育したのだろうし、三余堂は農民と言っても地主階級だろうけれど、やがて地の塩になろうと言う人材を育てたのだろう。
 幕府の学問が朱子学であれば藩校もそうなのだろうが、私塾は折衷学など自由だったのではないかと思う。だから地域として城下町だったのか、商業都市だったかによりその後の歴史に、特に教育行政に大きな違いが出てきているようだ。

 柏崎は近年、経済系大学と工科系大学の2つの大学が存在する町になった。市民は些か戸惑っているようだ。どう付き合ったらいいのか、その歴史がないので分からないのだ。
 しかし、かつて江戸末期には現代の新潟大学にも匹敵する南條三余堂があったのだ。俺達はもっとこのことを知り、プライドを取り戻していいと思う。

教養とは何か

2006.04.14 風の戯言

 あの人は教養がある、とかないとか言う。
 教養とは何か
 ある本にこんな書き方がしてあった。

 「教養」とは人の心を温かくする心だ、と。

 いい言葉だと思った。役に立たない知識の中でも飛び切り役に立たない知識を教養というのかも知れない。無関心な人にとって見れば何の価値もない話だが。人の心を温かくする・・・人は後ろ向きでは歩けない、だから前を向いて歩く勇気を分けてくれる人に共鳴するのだろう。

 今の今まで、人は死んだら無になる、という原始仏教に惹かれてきた。日本の仏教は元の仏教とは違う(富永仲基)けれど、それは間違いではなく日本人の優しさに合わせたものだったのか、と今理解できた。

 これからは心の時代だ、なんて言う。
 心とは感情とは違う、未来に対する意志なのだろう。最近の経営学セミナーで「想い」という言葉が出てきて戸惑った。近代経営学では計量化出来ないものは排除していたはずなのだが・・・上部構造は下部構造に依存する・・・何処かで聞いた事のある言葉で説明していた。世の中変わっているんだな。