硫黄島からの手紙

2006.12.23 風の戯言

 「硫黄島からの手紙」を観た娘が「ショック!」と語りかけてきた。同じ家に住み、同じ職場に通いながら会話する機会がそんなにあるわけではない。家庭で職場の話は厳禁だしそれぞれの生き方に異論があるわけではない。
 その娘が「たかだか60年前の話」でしかない日本とアメリカの戦争について質問を繰り出してくれることは嬉しいことなのだ。
 しかし、この戦争をどう説明したらいいのかよく判らない。戦後教育の中で「悪いのは日本」と教え込まれた身ながら、中韓の「歴史認識」を再検討していると本当にそうだったのかという疑念が湧き上がってきている。
 岡崎冬彦の言うように「かつてアングロサクソンに勝った国はない」のだから、リアリズムから言えば「歯向ってはならない」国に挑んだのは間違っていたのかもしれない。
 「しかし・・・」と思う。

NPO法人 トライネット祝賀会

2006.12.19 風の戯言


 自分でも把握できない行動の中に障害者の支援組織 NPO法人トライネットの副代表理事の肩書きがある。春先、市長が活動拠点「スペースあると」を訪問されたとき取材同行していた地元新聞社の社長が「石塚さん、何でここにいるの?」と聞かれた。お母さん達の集まりの中で、自分の立場をどう説明していいのか判らず咄嗟に「用心棒だよ」と答えてしまった。でも何と無くその「用心棒」が好きになり、いつもそう答えることにしている。
 今日は念願であった新しい活動拠点「ここ はうす」の竣工記念祝賀会が開かれた。市長さん始め多くの来賓と支援者、スタッフの人たち、利用者の子供さんたちが一緒になってお祝いし、マリンバの演奏があったり、市の介護スタッフによるバンド演奏があったりと、とても温かい、一足先のクリスマスのように盛り上がりがった祝賀会だった。
 閉会の挨拶で、私は用心棒のつもりで居たけれど、励まされ勇気付けられているのは自分達の方じゃないかと思う、ありがとう、と締めさせていただいた。
 最高にいい時間だった。こんな温かい心を一人でも多くの人たちに伝えられたら柏崎はもっともっといい町になるだろうとしみじみと思った。いい町になって欲しい。

ノストラダモス症候群より離脱せよ!

2006.12.18 風の戯言


 今日は柏崎商工会議所一般工業部会議員・参与懇談会及び懇親会があった。場所は天屋、奥の細道で松尾芭蕉が一夜の宿を拒否されたとして有名な江戸期からの旅館・割烹。ま、この事件の裏側には江戸の俳諧と京・上方の俳諧の攻めぎ合いの生々しさが漂っているらしい。
 閑話休題、今日の講話は新潟日報論説委員の小町孝夫氏、主題は「外から見た最近の柏崎」。どうもこの町の人たちはマゾ的嗜好の人が多いのか、まぁ揃って言いたい放題のサディストを呼んでくる。
 地域の欠点を臆面もなく言い立て、考えている未来を先に言い立て、地元を正に無能者集団の如くこき下ろし、教訓をたれ、破滅の予言を残して帰ってゆく。クソ面白くないね。
 この柏崎にはとんでもなく素晴らしいものや人がいっぱいある。ただ、ネットワークしてないだけだ。柏崎素敵発見隊が動き出せば柏崎の住みやすさや凄さがみんなにわかってくるだろう。
 地元の悪いところを言い立て、悪いことが起きるよと人を不安にさせ、自分も不幸になっているノストラダモス症候群の人たちが多すぎる。ノロウィルスがはびこらないうちに消毒してしまわなくちゃ!

御歳暮

2006.12.16 風の戯言


 何時の間か年末が近づき御歳暮を心配する時期になった。
 何処でも手に入るものでは心が伝わらないし、地方色豊かな、正に「土産もの」と言えるようなもので喜んでもらえるものを・・・と考えるとなかなかないもんだね。
 
 先日酔っ払って撮ったスナックの女の子の足の写真を、気心の知れた仲間に「御歳暮」としてメール添付している。礼状が届いていないところをみるとまだ開封していないようだ。まぁいいや。皆様に御歳暮です。年内に処分してください。なんてね。

 

越後風船共和国 正史 原稿

2006.12.11 風の宿


 越後風船共和国 正史
   おぢや「風船一揆」の物語

 白い雪原に色鮮やかな熱気球が舞う「風船一揆」、今年は31回目を迎える。もうすっかり雪国小千谷の早春の風物詩として定着し、多くの人たちに親しまれている。この祭りの仕掛け人として、大らかな時代の、些かの自慢話も含めた物語をお許し頂きたい。

 神に導かれるままに我々が「小粟田原」に降り立ったのは、日本暦で言えば昭和51年10月3日のことであった。日本国の歴史は高天原に始まり、越後風船共和国の歴史もまた小粟田原より始まる。混沌とした創世記は数々の伝説に包まれ、ロマンと冒険とが新しい時代を切り開いてゆく。欺瞞に満ちてはいるが・・・。
 その日われら柏崎熱気球苦楽部「かぐや姫とその一味」は朝から戦慄の中にあった。早朝、加納から飛び立たせた熱気球「かぐや姫」は離陸後暫らくして2人を乗せたまま北条の山の中に消えた。追跡車で探し回りながら、気球に乗れなかった我々は狂喜していた。「やつらは死んだ、次は俺だ!」正直に言って日本では7番目の、出来たばかりの我々の熱気球「かぐや姫」の方が心配だった。だって実際の熱気球に乗った人なんて日本でもまだ何人も居なかった訳だから・・。冗談が次第に小声になり、必死の捜索が続いた。北条、山潤、広田、小島、長鳥・・・成沢まで行ったり来たり、道行く人片っ端から捕まえては「気球見なかったかね」と聞いた。「気球・・? へっ?」 誰も見たものはいないらしい。数時間後山道に打ち捨てられた彼ら見つけとにかく一安心。聞けば道もない山の中に不時着し、藪を掻き分けやっと道に辿り着いたという。丁度農家の人が通りかかったので「此処は何処だね?」と聞いた。爺さんは不思議そうに「おまえ、何処から来た?」「うん、山の方から!」「山の上なんて道なんかないだろうが?」「うん、俺、空から来たんだ!」「・・・そうか、そうか、ふぅーん」爺ちゃんはそのまま行ってしまった。「空から降りて来たぁ?・・・バカが!・・」角を曲がって直ぐに、ジサマの吐き捨てるような独り言が聞こえた、と。
 道なき道を燃料のガスボンベを担ぎ上げ、気球を広げればそれだけで埋まってしまうような小さな谷から「かぐや姫」はこの日2度目のフライトに入った。山を越え、谷を超え、そしてまた山を越え、秋晴れの青空をわれらの熱気球は誇り高く、威厳すら漂わせて飛行を続けていた。「行けぇー!」我々も叫び続け、この日2度目のトランス状態に入っいた。
 午後0時20分、本当に神に導かれるままに俺達がまだ地名も知らなかった「小粟田原」に「かぐや姫」は舞い降りた。多くの見物人に囲まれ、照れくさい輝かしい秋の日だった。翌年、この地で第1回「風船一揆」を開くことになるなどその時は思いもしなかった。
 
 俺が、ぼんやりと気球に乗りたいなんて思い始めたのは「素晴らしき風船旅行」や「赤い風船」の映画を見てからだろうと思う。東京と横浜の夢に挫折し、故郷に戻り、新しい夢を捜し求めていた。ある日、若葉町の近藤塗装店で仕事の打ち合わせも終わり、若親分の近藤正雄氏と「運命の対談」に入った。「おい、熱気球作って空飛んでみないか」全く唐突な俺の誘いに「面白しげだねか、やろうて」とこれまた唐突な答えが返ってきた。「ところで、熱気球って何だね」俺は一瞬にしてこの男が好きになった。少年マガジンのヨーロッパの熱気球大会の写真が唯一の資料だった。京都大学の学生に出来て、俺ら土方や職人に出来ないことないだろうとばかり「日本で2番目」の気球を目指し、5人の仲間と2年間大久保神社で夜な夜な酒を飲んでいるうちに熱気球は出来た。世の中、何とかなるもんだ!。
 
 昭和52年3月、俺達は小千谷市小粟田原で「嫁よこせ!」のムシロ旗を立てて、第1回の「風船一揆」を開催した。参加気球7機、東京、京都、広島から、そしてアメリカの気球野郎も加わり、雪原にカラフルな熱気球が舞い、炸裂するような早春の祭りが始まった。宿は中鯖石コミュニティ、除雪も会場作りも交通整理も食事作りも、みんな風船共和国の仲間の手作りだった。
 56年から当時の星野行男小千谷市長、片貝花火-四尺玉の本田善治観光協会長の本格的な支援が始まり商工会議所も巻き込んで小千谷市の冬の一大イベントとして新たなスタートを切った。昼間の雪原フライト、夕方のバルーングロー、そして夜は全国から集まった気球の仲間、地元のスタッフ、観光客、一般市民を合わせ数百人の大パーティが夜の更けるまで続く。
 あれから30年近く、今も首謀者は朝日木材の金子修一氏が続けている。昨年、世界航空スポーツ協会から小千谷市と越後風船共和国は30年の表彰を受けた。世の中、何とかなって行くもんだ!