小千谷市真人「まるいち」の蕎麦
山本山を訪ねた日、牧場の古びた建物に「そば」の看板があり、寄ってみた。
何人か人がいたが、なに、日向ボッコをしていただけだった。
菜の花畑を背に、ボロ屋の机で昼寝をしているのだ。最高の贅沢!
「蕎麦」が食いたいと言ったら、そんなら「まるいち」に行けと言ってくれた。
そっか、真人の「まるいち」なら一度迷い込んだことがある。
美味かった記憶がある。真人には親戚もある筈。
ナビを頼りに走った。案外近かった。
辺鄙な山の中でも、有名だから各地から人が集まっていた。
暫く外で待たされ、中で待たされ、「へぎ3人前」と天ぷらを取った。
注文してからも待たされた。
これだけ込んでいれば、納得!
暫くして気が付いた。
店の女の子が、みんな気持ちがいいのだ。
店の若い子たちが、いつもニコニコ、テキパキ! そして客ともダジャレを飛ばしている。
家の嫁に欲しくなった。
長岡商工会議所 新年号への原稿
卓越した業績を目指して
経営品質アセスメントへの挑戦
今年もまた激動の年になりそうです。一昨年のリーマンショックで「地域経済」は世界の経済環境に直結していることを否応なしに実感させられました。しかし競争社会の限界も見え始め、「経済とは皆が生きる仕組み」、或いは「仏教の根本は共生(ともいき)」という言葉も見直されています。企業は営利活動による継続的成長を法的前提としていますが、同時に自然環境との調和と、社会、顧客、社員に対し責任ある存在としての自覚を求められ、同時にデフレスパイラルの予感の中で企業経営は難しい舵取りを迫られています。
弊社は「総合情報サービス業」として業務ソフトウェアの設計・製作、情報通信ネッワークの構築、情報関連業務の保守・サポートを主業務とし、顧客は自治体、企業、個人等多方面に渡り、ユーザーは全国に広がっています。顧客の知的情報資産に直接触れ、「信頼と創造」社是とする企業として「社員満足なくして顧客満足はありえない」と考えています。社員の人間性の向上、専門知識と技術の向上、経営の安定が何よりも大切になります。
創業20年を目の前にし、経営を次世代に託し継続的成長を考えていた時、顧客の部長さんから「経営品質アセスメント」の話を聞き、「これしか、ないっ !」と思い至りました。以来6年、試行錯誤を繰り返し、セルフ・アセッサーも9人育ち、経営の視点を顧客本位、独自能力、社員満足、社会貢献の経営品質4つの理念に照らして全社で見直しています。社員50人の小さな会社ですが朝礼時当番の社員が経営についてスピーチし、社内ホームページに発表しています。たどたどしい歩みですが、昨年は新潟県経営品質賞奨励賞を頂きました。やっとスタートラインに立てた思いがします。
今年は「柏崎経営品質研究会」で新潟産業大学に「経営品質とは何か」を主題とした寄附講座を開設させて頂ことになりました。「地方の時代」には其処で生きる為の経営学があるはずであり、経営品質アセスメントは地方の中小企業にとって継続的成長のための知恵と勇気を与えてくれる科学的経営実践学だと確信しています。
日本生産性本部、経営品質協議会の支援を頂きながら、原発立地地域の自力による自立を目指したいと考えています。地方が経済的自立を果たすことは簡単なことではないけれど、経営者が熱意を込めて未来を語り、社員と地域と共にその価値観を認識・共有し、実現に向けて共闘していくならば不可能はない、と信じています。都会で失われつつある本来の人間の生きる喜びと、知的資産経営と呼ばれる現代の経営は地方でこそ可能な筈だと思うからです。
新潟県電子機械工業会 機関紙への原稿
夢は不思議なエネルギー!
昨年のリーマンショック以来、絶望に近い不安感と閉塞感が日本を覆っている。確かに今回の経済不況は只事ではない。単なる経済循環不況ではないし、中国・インド・ブラジル等の勃興による相対的な日本の沈没だけでもなく、コンピューターと通信ネットワークの発達による新しい世界、人間は単体の存在ではなく、お互いに繋がりあった「情報有機体」であるとする「第4の革命」の渦中なのだという見解が広がっている。
ならば、次の時代の「幸せ」とは何なのか?
どこにビジネスに結びつくネタがあるのか?
そんな疑問に晒されている中、貴電子機械工業会への誘いがあった。
多分、次の時代はITと情報通信技術の高度な融合による「何か」が決定的に重要性を持つ社会になるだろう。その「何か」が何なのか、電子機械工業会で答えが見つかるかも知れないという予感があり、電子機械と人間の急速な接近が、近未来の可能性を叫んでいるようにも思え、図々しくも理事に手を挙げさせて貰った。
しかし、今は全く未来像が見えてこない。
クラウド・コンピューティングの活用に未来はあるのか? 知的生産活動は急速な進歩を遂げるだろうが、だがそれにどんな意味があるのか?
性懲りもなく世界経済を破綻に追い込んでいるようにしか見えない。
チャップリン「モダン・タイムス」の残像が錆び付いた脳をかすめる。
人間と電子機械と情報通信が「友気的」に、心豊かに結びついた「地域」と「個人」の幸福・・・それが何処か近くにあるように思えてならないのだが・・・。
原点に戻って、経営品質マネジメントを学び始めている。社員に「働く」と何か? 「仕事」とは何か? 「会社」とは何か? を問い直し、現代経済社会において卓越した業績を積み重ね継続的成長を実現する為に、経営には普遍的な本質があるはず、と経営品質の「顧客本位」「独自能力」「社員満足」「社会貢献」の4つの視点から現状を洗い直している。
未来は何時もフロンティア。
そして夢は不思議なエネルギー! 何とかなるさ!
高木さんの思い出 ねっと陽だまり原稿
高木さんに始めてお会いしたのは昭和62年秋だったと思います。
柏崎がニューメディア・コミュニティ構想の実現に向けて動き出した「熱い季節」、柏崎情報開発学院の秋の学院祭があり、新潟日本電気株式会社高木社長の講演がありました。
講演の中に「産業の空洞化」と「心の空洞化」という2つの重要な言葉がありました。日本の産業が安価な労働力を求めて海外にシフトし始めた時でもあり、そのことを危惧した「産業の空洞化」は各方面で語られていました。しかし「心の空洞化」は初めてきく言葉だったのです。
講演会の翌日、柏崎情報開発学院の2階の教室を借りて、我が「パソコン村」がパソコンやパソコン通信、そして幾つかのパッケージソフトなどを展示していたのですが、そのブースに高木さんがヒョツコリ現れたので、私は嬉しくなり夢中で「心の空洞化」とは何か?と聞きました。高木さんがどう説明されたか覚えていませんが、後で「このことについて質問してきたのは君が初めて」と話されたのは今も鮮明に覚えています。高木さんに少し近づけたようで、とても嬉しかったのです。
今になって考えてみると、日本人の心が虚ろになってきた時代の始まりだったのかも知れません。
創風システム創業4.5周年記念パーティのメーン・スピーカーをお願いした時も忘れられない思い出です。
のっけから「石塚はいい加減な男」と持ち上げて?くれたので、次々と続く壇上の祝辞は「俺はもっと悪いとこ知ってるぞ」みたいなスピーチで大爆笑の連続、160名のお客様が腹を抱え涙を流し、まさに抱腹絶倒・前代未聞の楽しい祝賀パーティになりました。今も私達の宝物のような思い出です。
高木さんが柏崎ロータリークラブの会長に指名された時、私を幹事に選んでくれました。
当時の新潟日本電気の部下の方達が「副官には石塚がいいだろう」とのアドバイスだったようです。これも私としては嬉しい出来事でした。ただ、事情により高木さんの会長就任が一年早まり、私は後任の幹事を務めることになりましたが・・・。
そのロータリークラブが「グルメの会」と称し市内外の美味しいものを楽しんでいた時期がありました。「六宣閣」さんの鯛料理を頂きに行くときは、もうバスの中は子供の遠足のような賑わい。でも高木さんの奥さんが不思議そうな顔してらっしゃる・・・・服装もどこかトロピカルな雰囲気・・・サスガ東京の人はオシャレだなぁ、なんて悪童達はワイワイと飲む事前運動に余念がない。
六宣閣に入って、奥さんがそっと「ねぇ、タイ料理じゃなくて鯛料理、なのね! 私タイ料理だと思って服装合わせてきたのにぃー!」 この席はタイ(鯛)料理の話で大いに盛り上り、高木さんの奥さんはすっかり我らのマドンナになってしまいました。
今、考えてみれば、私が45歳で土方からコンピュータ屋になれたのも、ビジネスでNECの特別なご配慮を頂けたのも、1995年12月24日クリスマス・イヴにインターネットを柏崎に接続できたのも、全ては高木さんがニコニコしながら見守っていて貰ったお蔭なんです。
そうそう、パソコン通信「KISSNET」の運営委員会「日本海倶楽部」の「網元(会長)」として、初期のネットワーク社会の地方での活動を温かく見守っていてくださった時代もありました。
優しくて厳しくて、何よりも柏崎が大好きな、正に慈父のような人でした。
今は遥か遠くの空に旅立たれ、心が空洞になったような寂寥感に呆然としています。
出来ることならば、何時かまた緑の風に乗って柏崎に来られ、貴方を慕う一人ひとりの頬をそっと撫でて行って欲しい、と思う。 「お元気ですか?」って・・・そのことを思うだけで目頭が熱くなってきてしまう。
そうだ、高木さん、夏の花火を見に来ませんか、桟敷席をとっておきますから・・・みんなで待っていますよ・・・。
背水の陣 ….ピンチはチャンス….
地震の後3ケ月が過ぎて、ハッと気付いたら柏崎は崖っぷちに立たされていた。
無理も無い。3年にも満たない間にM6.8の地震に2度も襲われたのだから。中越地震で半壊になった自宅をやっと修理をしたのに今度は全壊、なんて人も多い。自分自身も鯨波事務所を綺麗に直したのに今回は地盤ごと揺すられ、建物はひび割れ傾いてしまった。残念ながら取り壊さざるを得ない。
本町通を行くと古き良き時代の建物が軒並み壊れていた。お寺も神社も、田舎町の文化的な渇きを癒してくれていた市民会館も、みんな壊れた。公園やテニスコートは仮設住宅で埋め尽くされ、街中の市民の憩いの場は消えてしまった。
エンマ通り商店街からは今もうめき声が聞こえそうな気がする。この町はどうなってしまうのか・・・。
「がんばろう! 輝く柏崎」、「頑張ろう! 柏崎」、「まだまだ! 柏崎」、「立ち上がれ! 柏崎」・・・スローガンが乱立している。町人文化の町だから価値観は多様でいいのだ、と吐き捨ててみても、言葉が一つにならなければみんなの心は結ばれない。
地震直後、目茶目茶になった工場で呆然と立ち尽くしていた社長と社員も、日本中の自動車産業から押し寄せた助っ人達の手際のよさに今度は唖然とし、やがて自分達の仕事の大きさに鳥肌が立つほど感動し、文字通り死に物狂いで働き出した。柏崎の基幹産業であり、2度の工業メッセをやり遂げた人の和が平成の大苦難を間違いなく乗り切っていくはずだ。
同じく、地震直後、柏崎刈羽原子力発電所は黒煙を吐いて止まった。テレビや新聞、週刊誌などのマスコミは恐怖心をあおり、風評被害を報じ、この町に住む人たちの心をズタズタにし嵐のように去っていった。
俺達はどうすればいいのだろう?
俺はこの町が好きで、この町に住んでいる。雪が深くても、新幹線が通っていなくても、洒落た店が少なくても、それでも俺はこの町が好きだ。歴史や文化やいろいろいいものがあるのだろうけれど、そんなこと関係なしに俺はこの町が好きだ。だから、この町で死んでいくことに何の躊躇いも無い。この町の土に返る・・・素晴らしいじゃないか!
この先、原子力発電所は廃墟となるのかも知れない。今回の地震で原子炉は自動停止した。そのことの技術力は評価すべきものなのか、当然なのか俺には判らない。想定外の震度と言いながら安全係数を高く取っていた事の効果なのだろうと思う。
東京電力の年間売上高は約5兆円、その20%が柏崎刈羽原子力発電所によるものだという。約1兆円。製造原価を30%と考えると約3,300億円。働いている人は東電職員1,000名、協力会社約5、000名 総労働人員6、000人、家族を含めると約2万人が関係していることになる。
柏崎の従業員4人以上の会社総数 社、労働者10,000人、工業出荷額2,380億円。
自然の中でお天道様と共に働き日が落ちたら眠る、そんな心安らかな生活もあるのだろう。冬は年の余り、雨は日の余り、夜は時の余り、三余を大切にしながら桃源郷で暮す。東洋の知識人の渇望した夢でもある。そんな暮らしがしたい。小和田恒さんは柏崎高校の講演会で「明治以来、日本人の精神は開放されていない」と言った。グローバリズムの招聘で日本人の心はズタズタになっている。
しかし、この日本の経済社会は自分達で選んだ現実であり、この現実の中で生きていかざるを得ない。
俺は今50人の社員が働く会社の社長をしている。若い社員は結婚し、子供を育て、家を建てて自分達の未来に挑んでいる。会社は社員のものであり、一生懸命に働いて生活の糧を得て豊かな人生を築いて欲しいと願っている。
今、東電が再開できず廃炉が決まったら、柏崎の経済はどうなるのだろう? 経済の語源から共同体が生きる仕組み、として考えている。既に10万人市民の間に深く根を下ろした原発と言う経済体をどう考えるべきなのだろう?
安全と安心を脅かされても、黙って生活していろ、と言うことでは勿論無い。
かつて、武黒所長(当時)が柏崎を離れる時に「築城三年落城一日」と言う言葉と共に「地元に信頼されない企業は存在する価値が無い」と言われたのを明確に覚えている。副社長になってもその心に変わりはないものと信ずる。
過去において、一番パワーを持っていたのは多分政治家だったろう。二番手は地元商工業者であったことも間違いないと思う。しかし現代パワーの主は一般民衆、市民、地域の生活者である。この信頼を得ないと、一見風のように価値観が移動し掴みどころの無い大衆の信頼を得ないと、全ては始まらない、のだと思う。
大衆の心を味方につけるのにはどうするか。誠心誠意、徹底的に真正面から向き合うほかには道が無い。どんなに苦労しても、信頼を得られたと言うことは心地いいものである。
活断層等の問題もある。簡単ではない。しかし、この苦悩を乗り越えた時、柏崎は素晴らしい町になると信じている。
頑張ろう! 柏崎
朱筆をいれ、校正後新聞投稿の予定