越後風船共和国 正史 原稿

2006年12月11日 風の宿


 越後風船共和国 正史
   おぢや「風船一揆」の物語

 白い雪原に色鮮やかな熱気球が舞う「風船一揆」、今年は31回目を迎える。もうすっかり雪国小千谷の早春の風物詩として定着し、多くの人たちに親しまれている。この祭りの仕掛け人として、大らかな時代の、些かの自慢話も含めた物語をお許し頂きたい。

 神に導かれるままに我々が「小粟田原」に降り立ったのは、日本暦で言えば昭和51年10月3日のことであった。日本国の歴史は高天原に始まり、越後風船共和国の歴史もまた小粟田原より始まる。混沌とした創世記は数々の伝説に包まれ、ロマンと冒険とが新しい時代を切り開いてゆく。欺瞞に満ちてはいるが・・・。
 その日われら柏崎熱気球苦楽部「かぐや姫とその一味」は朝から戦慄の中にあった。早朝、加納から飛び立たせた熱気球「かぐや姫」は離陸後暫らくして2人を乗せたまま北条の山の中に消えた。追跡車で探し回りながら、気球に乗れなかった我々は狂喜していた。「やつらは死んだ、次は俺だ!」正直に言って日本では7番目の、出来たばかりの我々の熱気球「かぐや姫」の方が心配だった。だって実際の熱気球に乗った人なんて日本でもまだ何人も居なかった訳だから・・。冗談が次第に小声になり、必死の捜索が続いた。北条、山潤、広田、小島、長鳥・・・成沢まで行ったり来たり、道行く人片っ端から捕まえては「気球見なかったかね」と聞いた。「気球・・? へっ?」 誰も見たものはいないらしい。数時間後山道に打ち捨てられた彼ら見つけとにかく一安心。聞けば道もない山の中に不時着し、藪を掻き分けやっと道に辿り着いたという。丁度農家の人が通りかかったので「此処は何処だね?」と聞いた。爺さんは不思議そうに「おまえ、何処から来た?」「うん、山の方から!」「山の上なんて道なんかないだろうが?」「うん、俺、空から来たんだ!」「・・・そうか、そうか、ふぅーん」爺ちゃんはそのまま行ってしまった。「空から降りて来たぁ?・・・バカが!・・」角を曲がって直ぐに、ジサマの吐き捨てるような独り言が聞こえた、と。
 道なき道を燃料のガスボンベを担ぎ上げ、気球を広げればそれだけで埋まってしまうような小さな谷から「かぐや姫」はこの日2度目のフライトに入った。山を越え、谷を超え、そしてまた山を越え、秋晴れの青空をわれらの熱気球は誇り高く、威厳すら漂わせて飛行を続けていた。「行けぇー!」我々も叫び続け、この日2度目のトランス状態に入っいた。
 午後0時20分、本当に神に導かれるままに俺達がまだ地名も知らなかった「小粟田原」に「かぐや姫」は舞い降りた。多くの見物人に囲まれ、照れくさい輝かしい秋の日だった。翌年、この地で第1回「風船一揆」を開くことになるなどその時は思いもしなかった。
 
 俺が、ぼんやりと気球に乗りたいなんて思い始めたのは「素晴らしき風船旅行」や「赤い風船」の映画を見てからだろうと思う。東京と横浜の夢に挫折し、故郷に戻り、新しい夢を捜し求めていた。ある日、若葉町の近藤塗装店で仕事の打ち合わせも終わり、若親分の近藤正雄氏と「運命の対談」に入った。「おい、熱気球作って空飛んでみないか」全く唐突な俺の誘いに「面白しげだねか、やろうて」とこれまた唐突な答えが返ってきた。「ところで、熱気球って何だね」俺は一瞬にしてこの男が好きになった。少年マガジンのヨーロッパの熱気球大会の写真が唯一の資料だった。京都大学の学生に出来て、俺ら土方や職人に出来ないことないだろうとばかり「日本で2番目」の気球を目指し、5人の仲間と2年間大久保神社で夜な夜な酒を飲んでいるうちに熱気球は出来た。世の中、何とかなるもんだ!。
 
 昭和52年3月、俺達は小千谷市小粟田原で「嫁よこせ!」のムシロ旗を立てて、第1回の「風船一揆」を開催した。参加気球7機、東京、京都、広島から、そしてアメリカの気球野郎も加わり、雪原にカラフルな熱気球が舞い、炸裂するような早春の祭りが始まった。宿は中鯖石コミュニティ、除雪も会場作りも交通整理も食事作りも、みんな風船共和国の仲間の手作りだった。
 56年から当時の星野行男小千谷市長、片貝花火-四尺玉の本田善治観光協会長の本格的な支援が始まり商工会議所も巻き込んで小千谷市の冬の一大イベントとして新たなスタートを切った。昼間の雪原フライト、夕方のバルーングロー、そして夜は全国から集まった気球の仲間、地元のスタッフ、観光客、一般市民を合わせ数百人の大パーティが夜の更けるまで続く。
 あれから30年近く、今も首謀者は朝日木材の金子修一氏が続けている。昨年、世界航空スポーツ協会から小千谷市と越後風船共和国は30年の表彰を受けた。世の中、何とかなって行くもんだ!

トンネルワイン・シンジケート

2006年11月19日 風の宿


 極上のワインは命に優る、と言いますよね、知ってる?
まぁ、酔っ払いの戯言ではありますが、我が「唯酒論」の立場から言えば自明のことなんです・・・「酒乱性人生論」をご存じない? 知らねぇぞそんなのって・・・あぁ、貴方は不幸な人だ。
 長い間、人間をやっていると人生のどこかで「人生とは何だ?」なんて考えるものです。ナニ? 考えたことも無い? 話にならねぇな、まぁいいや。「人生とは何だ?」とか「人生如何に生くべきか?」なんて考えたとします。答えは出ない。出るはず無いじゃないですか、設問が間違っているんだもの。いや、ごめんなさい、このややこしい問題を「美味い酒を飲む為にどう生きたらいいか」と読み替えてあげれば答えは案外と簡単なんです。「酒乱性人生論」なんて高度に知的で難解な哲学に聞こえますが、なにA4一枚にも満たない人生論なんです。2ページ目からは白紙で、それは貴方が書き記してゆくところ、そう行動でね。議論だけを楽しみ、結局何もしないってのは寂しすぎるよ。
 「人生如何に生きるべきか」という問いを「美味い酒を飲む為にどう生きたらいいか」という問いに置き換えてやると知的で行動力に富んだ答えが見つかる。例えばお酒を買う為に経済的行為として働く必要がある。給与はそこそこでも楽しい仕事がいい。そして此処からが肝心なのだが、時間を忘れて飲める仲間が必要だね。君子の交わりは水の如し、と言うけれど心を許せる友達は何ものにも代えがたいね。それにね、話の種、こいつが大切だ。万里を旅し万巻の書を読んだもの同士が語り合える、なんて言葉があったと思うが、そいつだよ。まぁ、何でもいいんだけどね。
 「唯酒論」なんて馬鹿な話をしてるようだけど、そうそう、人間と動物の境界って何処か知ってますか? そう、酒を飲むか飲まないかなんですよ。猿酒? あれはウソ。仮にそれを認めたとしてもですね、税金払って酒を飲む、まして夜の巷で大金はたいて酒飲んでいるなんて人間だけだね。俺の知ってる限りだけど・・・。逆に言えば酒を飲まねぇ奴は人間じねぇ、ってことになるんだけど、理論上多少無理があるかな。
 また脇道に反れるけど醸造酒は文化的で蒸留酒は文明的、そんな感じしませんか。醸造酒は神の領域に関り、蒸留酒は化学製品って感じなんだけれど、ただどちらも長い時間寝かせると、ビックリするほどの化け方をする。時間って不思議だよね。全てのものが変化する。
 そうそう、トンネルワインの話だった。あ、これも説明が必要だね。柏崎には「ぶどう村」がありワインを作っている。笠島には旧信越線の赤レンガのトンネルがそのまま残されている。この2つは単独でも面白いのだが、ビーカーの中で掻き混ぜると化学変化を起す。柏崎には面白い「元素」が一杯あってね、巧く組み合わせると核融合が起きる可能性がある、そう思いませんか。面白い町ですよね。また話がそれてしまった。
 「ぶどう村」の2002年もののヴィンテージがいける、そんな噂を耳のしたのは昨年の秋だった。ふぅーん、ぶどう村のワインがねぇ、飲んでみっか。その直後、新潟産業大学の村山実教授と雑談しているときに、「時間の缶詰」と言う話題になった。地方が都会に勝つ手段は時間を利用することだと。地価の高い都会では絶対不利な条件、資本回転率が低くても勝てる方法、それは「時間」による付加価値の増加だと。真似を考えても追いつくことが不可能なのは時間だと。ワインとトンネルが化学反応起した瞬間だった。  
 善は急げ、行動は早い方がいい。早速中村和成氏が動き出した。悪戯な悪童がそのまま大人になった様な男なのだが、楽しい話なら1を聞けばもう走り出している。世の中、やってみなくちゃ判らない。失敗も多いけれど、それはそれで楽しいことなのだと。
 市役所農林水産課の内山課長に聞いたら笠島のトンネルが空いていると。ぶどう村の遠山氏に無理を頼んでワインを数百本(100以上は「数百」、300以上は「1000近い」と言う気持ちとしての単位表現)トンネル内に貯蔵してもらった。村山教授は自作の温度計と湿度計を設置し記録し始めた。芳醇な香りの想像が頭を占拠し、神の祝福が始まった。
 美味いワインは長い静かな時が必要だという。短くて5年、出来れば30年は神の懐に抱かされて、我らの喜びの時を待つ・・・たまらねぇ! 
 「オイ! 5年も待っていたら死ぬぞ、それにさ、美味さが時系列でどう変化するか、こいつはきっちり調査しておかないと後悔するぞ」って春先から騒ぎ出した。「3ケ月で美味くなるわけないだろう、落着け!」課長はそう言って渋い顔をした。あいつは人間じゃねぇ。
 秋になった。ワインの新酒の便りが届き始めた。「もう、待てねぇ、少しだけ!」ある会で話の種に何本か並べてみた。レッテルに薄らとカビも生えている。一口含んで「通」が言った。「ほぅ、いいねぇ。スペインのワインのような・・・」その先はもういい、美味いことは確かなようだ。俺達も飲んでみた。「馬鹿いい具合じゃねぇか!」
 嬉しくって、もうこうなったら突っ走るしかない。柏崎風の会、トンネルワインシンジケートの名で仲間内に呼びかけて試飲会を開いた。大成功だった。柏崎のワインを見直し、洒落たコメントをつけてみんな大騒ぎし、楽しい時間が流れていった。
 正式なソムリエの飯塚信雄さんの一言が忘れられない。「ワインはその年の天候によって味が変わります。よく出来た年も、不出来な年もあります。ワインはその年のことを思い出しながら味わう、それが一番大切なことのように思います」
 この年、何があって俺は何していたのだろう。2002年のヴィンテージが注がれたグラスを眺めながら、俺は眩暈がしそうになった。何にも覚えちゃいないんだ。

 酒は百薬の長と言う。それは半分正しくて半分は大嘘だ。でもそれは身体にではなく、涙を拭きながら走り続けている人間への、神の励ましという意味なのかも知れない。

 越後タイムス寄稿原稿 2006/11/21 修正

鯖石

2006年01月19日 風の宿

                                            柏崎市加納 石塚 修

 眠れぬままに早暁の鯖石川の堤防を散策しているとまだ遊び足らない妖精たちが賑やかに塒に帰っていくのに出会う。
 西半分の空には未だ星が輝き、上流の方から川のせせらぎが頬を撫でる風に乗って伝わってくる。八国の山頂は霧に覆われ、黒姫は雲に浮かんでいる。やがて東の空を染めて今日が始まり、逃げ遅れた山霧が山麓をゆっくりと下って行く。何という美しさだろう。

 夕方は金色の雲と微かな音を牽きながら旅客機が西に向かっていく。夜は星たちが瞬き、時には流れ星に出逢うことも出来る。そう言えば最近は人工衛星を見てないな。遥かな宇宙と人間の営み。遥かな時間の流れと通り過ぎてゆく風達。鯖石の地はいつも美しく、いつも温かい。

 庭の椅子に凭れてボーとしてそんな風景を眺めているのが俺には何よりも好きな時間なのだが・・至福の時は痴呆症と紙一重。

 我が家には少しばかりの芝生の庭と小さな農園がある。黒姫以北、東は八国が峰境、言えば佐橋の庄、それが俺の精神的領土。
 その広大な領地の中の三十五坪ほどの農園にトマトやキュウリ、採り損ねた巨大なナスや牛の角みたいなオクラ、イチジクや柿などが実り、それが争いのもとなんだが、畑で取れる収穫物を巡って俺とカラスの熱い戦いが続いている。悪戯にロケット花火を用意していたが、どういう訳かそんなときには奴等は来ない。テロに対する危機管理はスゴイのかも知れない。久し振りの休日、芝の手入れをしていると隣りの樅の梢でまたあのバカガラスが喚いていた。

「うるせえーな、間抜けガラス! あっちへ行け」
「珍しいじゃないか、芝の手入れなんかして、カァチャンはどうしたんだ」    
「喧しいっ!また俺のイチヂクを盗っただろう」
「お前んのか、いやさ、お前が作ったんか」
「当たり前だろう、俺が作ったんだ。俺の畑でだ」
「お前は木を植えただけ。作ったのはお天道様と大地。お前じゃない、分かるか?」
「うーん、そう言うことか」
「そうだ。トマトもだ。それともうひとつ、土地はお前のものじゃない」
「馬鹿言うんじゃない、土地は俺の名前で登記してある、俺のもんだ」
「それは税金取るシステム。大地はみんなのもの、分かるかな?」
「バカ・チンドン、お前のかぁちゃんデベソだ。ここは日本国だぞ、文明の誇り高い・・」
「カラスに臍があってたまるかよ。土地は虫や動物や鳥たちみんなのもん。境なんて、人間だけだ」
「うーん・・・」
「第一お前たち人間も動物の一種にしか過ぎないだろが。判ったらカァーと鳴いてみろ」
「カァー・・・」
「よく出来た。やればできるじゃねぇか」
「うっうっ・・・」
「カラスはな、頭がいいんだ。脳の体積比率から言えば俺らがトップ。人間なんか予選落ち」
「・・・・・・」
「それとザイゴモンよ、街の連中には気を付けろ」
「意地が悪いって、そう言いてぇんだろう」
「そんなこと言ってない。ただ、本当の自然を忘れている。危なっかしいんだ」
「ふぅーん」
「お前の相手してると頭がおかしくなる。俺は帰る。イチジク取るな、アバヨ」

 好きなことだけを言い残してカラスは行ってしまった。田舎暮らしは不自由だけれど、不思議な充実感がある。そうだ、今年は柿が豊作だから鳥たちに残しておいてやろう。唐辛子を注射しておいて、だ。カラスが赤い顔で「ペッ、ペッ」なんて、アハハ・・。

 今日もいい天気。

「パソコン村」のころ

風の宿

 新年おめでとうございます。

 今年は西暦2001年と言う新千年紀の始まりなんですね。よく考えると凄い新年を祝っているのだなと思います。 さて、21世紀はどんな展開を見せるのか、未来を考えると何時も不安になるけれど、過去を振り返ると今ほど幸せな時代は無いように思います。
 人類の歴史に進歩と言う概念があるとすれば、私は個人が自分の可能性を追いかけられる自由を手にしたことだと思うのですが・・・。

 21世紀は「IT革命」の時代だと言われます。人間は農耕を発明し飢えから逃れ、産業革命を経て欲しいモノを手にすることが出来た。機械文明は人間より機械を信頼し、生産性を上げる為に効率よく「人」を排除し、効率的に相手を抹消する為に発達してきました。
 コンピューターはその合理主義の帰結の産物ではあるけれど、人類の知恵の素晴らしさはそれをコミュニケーションの道具として使い出したことだろうと思います。
 
 柏崎でインターネット・プロバイダーを始めたのは5年前。当時NEC系の接続ポイントとしては新潟県内でも初めてでした。通信速度は64Kbpsで、現在では一般家庭で使われているものです。たった5年前でしかないのです。今は光ケーブルが何本も入っていますが・・・。
 多くの人達のいろんな思いが通信回線を行ったり来たりしている。それを考えると嬉しくなって、やはりこれは自分の天職だなと、傍の迷惑も顧みずに自分でそう思っています.
 
 最近になって、この業界の人達と文明と文化、都市空間と田園、ビルゲーツと良寛等について話すことが多くなりました。ITの時代に人間の幸福が何処にあるか。アメリカよりも北欧にその問いの答えがあるのかも知れない、そんな人も増えてきました。
 全ての文明、文化はその絶頂期に次の時代の予感を孕んでいます。コンピューターが全ての人を幸福にするわけではないけれど、しかし、その道具を使って人間はもっとハッピーに成れるのかもしれない。

 今の私の夢はコンピューターを使って動物や植物と話をすること。古い大きな樹から昔話が聞かれるかもしれない。野生の動物から人間の知らない世界の面白さを教えてもらえるかもしれない。
 その技術が進めばいろいろな機能障害の有る人達も社会参加できるだろう。何よりも、コミュニケーションが足りないばかりに小さな事で争っていることもなくなるだろう。
 ただ一度の人生をもっと素直に生きられるかも知れない。そんな夢が60歳近くなった変な男を熱くしています。

藍沢南城 三余堂

2006年01月18日 風の宿

 
                                     鯖石郷土史クラブ 会員 石塚 修

 平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。
 しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。
 午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。

 「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。
 700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。

 近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る漢詩「南条村」は私の大切な宝である。

 南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。

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