3月11日 東日本大震災 15年
あの日、長岡地域振興局で会議中だった。
大きな揺れと、近くの小高い山と田圃が海の様に、波うっているように見えたのを覚えている。
その時何が起きたのか、テレビで知った。
自分はどうしていたのか、殆ど覚えていない。
ただ、地震の直後、南相馬の海に鎮魂の祈りを捧げに行って来た。
同行した神主は言葉もなく、海を眺め、立尽くしていた。
道路の脇に大きな船が置いていかれ、農家の庭先で草が伸び始めていた。
大きな地震人と大きな津波、福島第一原発の爆発事故。
フクシマはまだ大きな暗い影を引きずっている。
帰宅困難区域は東京23区の半分くらいの面積があり、2万5千人が故郷を追われているという。
親を亡くした子供たちは1782人だったという。
親を亡くしても、泣くことの出来ない悲しさって解る?
ただ、哀しいんだろうな・・・
3月10日 思い出の「柏崎気球会館」
加納に家を建てた時の2間⋆3間の飯場小屋がそのまま遊び小屋になった。
初代「柏崎気球会館」は新築の家のすぐ脇にあり、ボロボロだったけど温かった。
大勢の仲間が集まり、入り切れないときは、我が家の2階に上がって寝ていた。
孫の顔見に来ていた祖母ちゃんが、朝ご飯の時に2階からぞろぞろ降りてくる。
祖母ちゃんは「エツ?」みたいな顔をし驚いていた。
それはそうだ、祖母ちゃんが寝てから来て、2階で寝てた気球の仲間。
事情を見かねた石塚組の兄貴が、庭に3間*5間の小屋を作ってくれた。
畳みも敷いて、布団を入れる棚も造り、水道引いて台所も出来、「柏崎気球会館」になった。
15坪、30畳の小屋に50人がカニで酒盛りし、そのまま寝ていた。
京大の稲生さんが佐渡海峡を飛んだ時、ここが本部になって畳や壁の落書きが始まった。
雪で小屋が潰れた時に、ミシンや全てを捨ててしまったけれど、残して置けば「世界遺産」になったハズだ!
あれから50年近くが過ぎた。
写真は新潟大学探検部の斎藤さんが残しておいてくれたもの。
先日の風船一揆に参加し、後で写真を送ってくれた。
この「柏崎気球会館」から何機の気球が飛び立っていったのだろう。
4月になったら信州大学探検部の残党が遊びに来るという。
「長老」と呼ばれるボスはジャカルタでスタッフ200人くらい抱える医療法人を経営している。
彼は貧民街でも医療サービスを行い、バリ島に診療所も作ってくれた。
この島で「やすらぎの郷」みたいなホームを期待している。
信州大学が熱気球を作り(これもその一つ)中国河北省石家荘で飛ばした時ミスがあり、人民解放軍の司令官室に連れ込まれた強烈に刺激的な記憶も残る。
ボロだけど、この小屋には夢があった。
そして、多くの仲間が、ここから自分の人生を飛び立たせていった。







