がくあじさい

2008年06月30日 風の戯言


 梅雨の香のしじまの花の白さかな      壷泡

 いよいよ四住期の第三期林棲期に近づいたのか四合庵にあこがれる度合いか強くなった。昨日は与板周光院に自分の墓地の予定地を見に行った。何か釈然としない。私用に特別に確保しておいてくれた場所ではあるが、墓地の構想が沸かない。もう少し、ジックリト馴れるより仕方なさそうだ。

 八石に雲は低く垂れ、梅雨の晴れ間は気分がいい。あじさいが一厘、しっかりと咲いていた。

梅雨の休日

2008年06月29日 風の戯言


 季節外れの風邪に襲われ、肺癌を併発したような咳が止まらない。健康管理に人一倍木を使っている妻も理なのに、気まぐれな体調に振り回されている。参ったね。
 九州、関東は大雨なのに柏崎は付き合い程度の梅雨。ナンテす黄な粉といっていると「そんじゃぁ・・・」なんてもっと気まぐれな天が集中豪雨を降らせる。クワバラクワバラ、触らぬ神にたたりなし・・だ。

 中越沖地震からもう直ぐ1年。折りたたむように岩手・宮城内陸地震が起き、原発関係を見守る立場からは背筋が凍るほどの危機感を抱いている。
 柏崎原発が再開のめどが立っていない時期に、もし仮に、岩手・宮城内陸地震がもう少し南、福島で起きていたら東京はどうなっていたのか。リスクマネジメントの立場から言えば「2拠点主義」は正しい。まさか離れた2点間に同時にリスクは生じないだろう、と思うからだけれど、重大案件では有効なもう一つのバックアップ・システムが必要なのかも知れない。

 咳が止まらなくて、雨の休日を別途の中で過した。晴天が続いた為に草木が喜んでいる声が聞こえるようだ。気が向いたときに水撒きはするが、それも全てではない。木々や草達が不公平をなじっているけれど、世の中なんて不公平で不平等なんだと説明にもならない「答弁」をしている。

 堤未果の岩波新書「貧困大国アメリカ」がいい。本来国は、税を納める国民への対価・サービスとして国民の生命と財産を守り、全ての人への義務教育を規定している。(25条、26条)。効率化の名分の下にその全てが民営化になり、当然の帰結として格差社会が生まれ、軍が貧困社会にリクルートに来る・・・中産階級も競争に敗れてやがてイラクに送り込まれていく。
 日本の未来への警告書ではないのかな。
 

赤いバラ

2008年06月25日 風の戯言


 今日明日と東京出張の予定を体調不良で取りやめ。
 久し振りに激しい咳き込みが始まり、薬を貰ってようやく少し楽になった。夕方は知人宅の御通夜。
 早めに帰って我が家の「バラ園」を覗くと、春に植えた赤いバラがビロードのような花をつけていた。「バラにバラの花が咲き、何の不思議はない・・・けれど・・・」という感じ。改めて驚嘆することでもないのだろうが、美しい花もそれなりの花も自然界は豊かだなと・・・そうか、このバラも人間の創造力が作り出したものなのか!
 動物の一種にしか過ぎない、と判った様な事を言っているけれど、人間の面白さと悲しさは量りきれない。
 

さくらんぼ

2008年06月24日 風の戯言


 今年もまた山形の友人から「さくらんぼ」が届いた。毎年エンマ市の終わったこの季節を心待ちにしている。
 齊藤君は新潟大学工学部卒業後故郷に帰り電子関係の仕事をしている。在学中は探検部に所属し、放蕩?の後、熱気球に辿り着いた。
 我が家の畑に建てた「柏崎気球会館」で熱気球の設計から裁断、縫製、係留実験まで、そしてこともあろうに仲間の一組のカップルが製作中の熱気球の布の山で子供まで作ってしまっていた。貝沼君の子供は「風-はるか」と名づけられた。風を古語で「はるか」と読むのだそうだ。幸あれ!

 あれからもう35年近くが過ぎていったことになる。35年も昔の青春の振れあいを大切にしていてくれて、とても嬉しい。男も女も、私の友人はみんな妻の友人になってしまうのだけれど・・・嬉しいことだ。

 夕食が終わってBSを見ていたらビリー・ホリディの死後10年目に収録された彼女を知る人たちの証言集を元に構成された2時間番組。原田芳雄の語りに痺れ、珍しくテレビの前の2時間を過してしまった。
 レスター・ヤングのサックスとビリーとの協演はストレートに俺の心を掻き毟り、肌を沫立てていた。「月夜の小舟」「奇妙な果実」「マイマン」等を聴きながら、人が「ジャズ」って言っているのは、きっとこのことナンダな、と納得した。音が、ソウルが全然違うんだ。酒と不幸と麻薬と絶望がごっちゃ混ぜになって、それでも生きてゆかんばならん悲しみが伝わってくる。

佐渡ゆり

2008年06月21日 風の戯言


 阿川弘之の「大人の見識」(新潮新書)のカバーに
  
   軽躁なる日本人へ
    急ぎの用はゆっくりと
    理詰めで人を責めるな
    静に過すことを習え・・・とあった。

 「急ぎの用はゆっくりと」というのは考えさせられる。軽躁なる身はいつも何かにおわれているようで、本は買ってきても読まない、気に入った本は取敢えず開く、物語や小説は筋書きの先を知りたくておちおち読んでいられない。従って感動してもメモも付箋もつけない。暫らくしてフラッシュバックのように感動の文章が吹き上がってくるのだが、記憶が定かでない為に確認しようがない・・・。

 静謐な時を愛せ・・・その意味では田舎暮らしの休日はありがたい。殆ど訪ねてくる人もなく、痴呆のように暮している。
 2面のガラス戸を開けると新しい風道を風が駆け抜けていく。部屋の端で籐椅子に掛け無造作に詰れた本を読んでみる。面白そうな本に集中し書き込みしたり付箋をつけたりして読み返してみる。66歳を過ぎて、ようやくゆっくりと本を読んで見ようという気になった。

 庭の片隅で今年も佐渡ゆりが咲きはじめた。
 薄いピンクのバラが終わり、赤いバラが咲きはじめた。そんな季節の移ろいの中で佐渡ゆりが定着し株が広がってゆく。なんとも、嬉しいんだなぁ。