ぶらり、ぶらり
殆ど無定見、無節操・・・活字が読めればそれで満足なんて極貧状態は既に脱したが、一定のテーマを深堀しょうなんて欲も能力も持ち合わせていない。本は衝動買いを最善とする、なんていいながら本屋を覗くと小遣いのある限り仕込んでしまう。積んで置くだけで満足、ってこれも病気の内?
最近は浅田次郎の中原の虹4巻に貪りついてしまったが、何の風の悪戯か松井今朝子の「吉原手引草」「銀座開化事件帖」ですっかりファンになってしまった。
歴史小説が男達の英雄伝説だとすれば、松井さんの主人公達は塵取で掃いて捨てられるような運命の中にいる平凡な男や女達の物語。知性的な、と言うのは人間的なって意味なんだが、男と女の洒落た会話が好い。
現代のように「好きだ」と言ってしまえばそれで済む言葉を、結局双方とも分っていて確認しあえない心の疼きがある。じれったいほど回りくどく、決めの一言がいえなくて一生ひきづってしまうようなシーンが、誰にでも2枚や3枚はあるのだ。女の手を握るのに、どれだけの勇気が要ったことか・・・そんなことが思い出させられる。
豊富な電気のお蔭で世の中明るくなって、妖怪も幽霊もいなくなって、男の心も女の真も、みんな干からびてしまった。
目と目が合っただけで、顔を赤らめていたころ・・・今から考えると馬鹿な時代でも、もっと深いものがあったような気がする。
歳のせいでもなく、この本の余韻なんだろうけれど・・。
銭もなき身にも哀れは・・・秋の夕暮れ
11月も半ばに近づき、秋は足早に過ぎていく。何を望むでもなく、何に怒るでもなく、焦点の合わないまま落ち葉を眺めていると、心が満ちてくる。秋の、雨の日曜日の夕暮れは、人を正気に戻してくれるのかも知れない。
早々と庭の雪囲いも終わり、柿の木に柿の実がなり、畑には取り残したナスが雨に打たれている。晴れた日には遊びに来る小鳥達も、今日は姿を見せない。
2階の窓からは、公園の公孫樹の向こうに山頂を霧に包まれた八石の山が見える。見飽きない風景。
この谷に生まれ、この谷で朽ちて行くであろうこの身は精一杯に生きたのか・・・。もう少し時間があるようだ。
銭もなき身にも哀れは知られけり
花街遠き秋の夕暮れ 詠み人知らず
法句経(ダンマパダ)
こんな教えがある。
「もしも愚か者が、
みずから愚かであることを知るならば、
すなわち賢者である。
愚か者でありながら、しかも自らを賢者だと思う人こそ
愚か者だといわれる」 六三
また
「愚かな者は、自分にありもしない尊敬を得ようと願う。
修行僧の間では高い地位を望み、僧院にあっては支配権を望む」 七三
「私は知っている」
と言う人には、教えてくれる人は現れない。
「自分は仕事が出来て、凄いのだ」
と言う人には、協力する人は現れず何時か必ず失敗する。
「私は正しいわけではない」
「自分はどこかで間違いを犯すかも知れない」
自分は愚か者だと気がついている人は、日々学ぶことが出来る、といわれている。
他人に「馬鹿だ」と言われるとムカッ腹が立つ・・・この矛盾が人間なんかな・・・。
唐招提寺
何故か急に鑑真和上にお会いしたくなって唐招提寺を訪ねた。修理中の金堂をすり抜け鑑真霊廟に急いだ。
「天平の甍」にあるとおり唐で既に高僧であった鑑真が何故5回の難破を乗り越えて失明までして日本に着たのか、何時かまたその心に触れてみたいと思っていた。
霊廟の前で一人の男が、廟に何事かを語りかけまた沈黙していた。この男も迷っているのだろう。
初期仏教の法句経「ダンマパダ」にこんなのがある。
「全てのものは無常である」(諸行無常)と
明らかな知恵を持って観るときに、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが人が清らかになる道である。
人は生まれ、人は死ぬ。
たったそれだけのことに思い至ると、心は静寂になる。
全ての真理が見えてきて、生きる勇気が湧いてくる。