唯我独尊

2006年09月14日 風の戯言


 久し振りに「未完成」に寄ったら、マスターが「秋ですねぇ」と言いながらシャンソンのレコードをかけてくれた。
 まだ早いか? やはり枯葉散るコロが一番なんだね。絵画館前の銀杏並木とか表参道のケヤキ並木とか信州の唐松林とか・・・。
 それはまぁいいけど、歳のせいか疲れが蓄積する。気が付かないでいると「欝」になり、世の中みんな大した事無いように思えてくる。危険だね。

 俺は何時までも戦場にいる。死ぬ直前まで戦場を駆け巡っていたい。最近またそう思うようになった。

 今日新幹線の中で考えた。「自信」て何だろう? 現在の丸ごとの自分を異常なほど高く評価して、それを信じて前を向いて走ることだと。唯我独尊、それでいいのだ、と。
 情けないほど単純なことじゃないか。

 64歳の秋に思うこと
 

秋、ですね。

2006年09月03日 風の戯言


 心臓を半分抉り取られたような夜が更けていく。
 別に何があったわけでもない。でも、何も無かったわけでもない。毎日毎日、波風が立って波乱があって、それが日常であり、そして一日が過ぎていく。
 午後から仕事の関係で新発田に出かけ、3時間ほど熱っぽい会議をこなし、夕暮れの高速道路をノンビリト走ってきた。スーパーで今年最後のスイカを買ってきて、あまり美味くないスイカを美味しそうに食べる女房を見ていた。スーパーで松本零士が描く女のような人を見た、そのせいでもあるまいに・・・。
 更に夜が更けていく。久し振りに仏壇にお線香を上げ、暫らくポツネンとしていた。
 気が充実してくるのをただじっと待つ、それもいいものだ。
 人は何処から来て何処に行こうとしているのか、風のように、自分の心すらも掴めない。一瞬の空を生きる、そのことは判っているのだが・・・何なんだろう、この隙間風は・・・?

愛犬チコの物語

2006年08月31日 風の戯言

 子供の頃、家にはいつも5,6頭の犬が居た。
 家長格のチコ、シェパードのクロ、セッターのペック、雑種のロンやコロ。チコは牝犬ながら家長としての風格があった。クロは図体の大きな小心者、ペックは冗談を理解し俺とじゃれあっていた。ロンはスタイルがよく気恥ずかしそうに俺に寄り添っていたし、コロは風来坊。3人の飼い主の家を気の向くままに移動していた。
 食事と散歩は大騒ぎだったが、明るかった。昭和30年代初めの田舎の生活と風景が鮮明に蘇ってくる。

 吹雪の夜、チコが2匹の子を産んだ。1匹は既i
冷たくなっていた。死んだ子犬を、雪の中、裏の小川に捨てた。
 翌朝チコの小屋を覗いてみると母親は死んだ子犬を舐め続けていた。川の縁に落ちた子犬をチコは咥えて戻ってきていたのだ。「チコ、もう死んでいるんだよ」と子犬を取り上げようとしたら、逆らったことのないチコが低く唸り、目に一杯の涙を溜めて俺の顔を睨んでいた。チコの哀しさが身体を突きぬけ、小屋の中で俺とチコはワンワン泣きしていた。

 もう50年以上も前の、遠い昔の話だ。

 チコと、クロと、ペックと、ロンと、コロと、そうそうペスもシロもみんな集まってきて俺を散歩に誘っている。今は、そんな光景が切ないほど懐かしい。

学園都市 柏崎

2006年08月30日 風の戯言

 柏崎は残念ながら長岡の「米百俵」のような明快な教育の理念を持ち合わせていません。江戸末期、藍沢南城三余堂の隆盛は夢の中であります。

 しかしながら21世紀知識情報化時代の地域社会経営は人材の育成に懸かっています。故に、良くぞこの地に2つの大学を残してくれたものと先人達の先見に感謝するものであります。教育は百年の大計であり、古今東西変わることのない理念かと思います。
 私達はこの激動の時代を子供達の教育と、この教育環境を育成し未来の子供達と地域の繁栄に繋げたいものと熱望しているものであります。

 未送信のメールが残っていた。
 整理し、新聞に投稿してみたいと思っている。

母親

2006年08月22日 風の戯言


 母親の名前を、大学卒業まで知らなかった。
 7人の子供を生み、生命が尽きたのかも知れない。5歳の時だったそうである。継母が出来、俺は母の名を「忘れた」。7歳で祖父が死に、10才で父親が死に、15歳で祖母が死に、母親の名前なんてどうでも良くなったのかもしれない。
 母の名前は千歳と言う。大学の卒業名簿か何かに名前を記入する欄があった。故郷に暮す長姉に、俺は明るい声で尋ねたらしい。電話の向こうの声が突然に泣き叫び、俺を罵り、やがて嵐が過ぎて、長い時間消ええるように泣き続ける電話を、俺は切った。

 俺はとんでもない事をしてしまったのかも知れない。考えてみれば、24歳にもなって母の名前を知ろうともしなかった自分は本物の馬鹿者なのかと心底情けなくなった。

 母は14代続く旧家の一人娘だった。祖父達は何を考えていたのか、、地域の曹洞宗の大寺の檀家総代の一人娘を横浜のフェリスに遊学させた。大正時代の何とも大らかな空気が伝わってくる。
 病を得て、実家に戻った母はやがて父と一緒になり、賛美歌を口ずさみながら子育てや家の掃除をしていた、という。みんな姉達の話だ。

 15歳まで生きた祖母から母の話を聞いたことがない。今にしてみれば、子供に先立たれた母の悲しみを思うことが出来る。幼子を残して死に行く母の悲しさと無念を、思うことが出来る。その母の悲しみと無念が、今も俺を見守っているのかも知れない。あの世、ってのがあるのかもしれないと思う。
 まだお盆、でいいのかな。