法句経(ダンマパダ)
こんな教えがある。
「もしも愚か者が、
みずから愚かであることを知るならば、
すなわち賢者である。
愚か者でありながら、しかも自らを賢者だと思う人こそ
愚か者だといわれる」 六三
また
「愚かな者は、自分にありもしない尊敬を得ようと願う。
修行僧の間では高い地位を望み、僧院にあっては支配権を望む」 七三
「私は知っている」
と言う人には、教えてくれる人は現れない。
「自分は仕事が出来て、凄いのだ」
と言う人には、協力する人は現れず何時か必ず失敗する。
「私は正しいわけではない」
「自分はどこかで間違いを犯すかも知れない」
自分は愚か者だと気がついている人は、日々学ぶことが出来る、といわれている。
他人に「馬鹿だ」と言われるとムカッ腹が立つ・・・この矛盾が人間なんかな・・・。
唐招提寺
何故か急に鑑真和上にお会いしたくなって唐招提寺を訪ねた。修理中の金堂をすり抜け鑑真霊廟に急いだ。
「天平の甍」にあるとおり唐で既に高僧であった鑑真が何故5回の難破を乗り越えて失明までして日本に着たのか、何時かまたその心に触れてみたいと思っていた。
霊廟の前で一人の男が、廟に何事かを語りかけまた沈黙していた。この男も迷っているのだろう。
初期仏教の法句経「ダンマパダ」にこんなのがある。
「全てのものは無常である」(諸行無常)と
明らかな知恵を持って観るときに、
人は苦しみから遠ざかり離れる。
これこそが人が清らかになる道である。
人は生まれ、人は死ぬ。
たったそれだけのことに思い至ると、心は静寂になる。
全ての真理が見えてきて、生きる勇気が湧いてくる。
フルベッキ集合写真
フルベッキという一人の宣教師を取り巻く、幕末を駆け抜けた志士達の群像、いわゆる「フルベッキの集合写真」にまつわる話はネタとしては面白いが多くはトンデモ本なのだろう。
しかし、加治将一の「幕末維新の暗号」は歴史の裏面好きとしてはタマラない小説だった。
幕末の長崎、アメリカ人宣教師フルベッキを囲んで総勢46名の群像、龍馬、西郷、高杉、岩倉、大久保、中岡慎太郎、伊藤博文・・・幕末の英雄達が一枚の写真に納まっている。
馬鹿な、と思う読者の興味を次から次へと資料を並べながら明治維新後の不可思議な天皇家の謎解きをしていく。
特に北朝系の孝明天皇の後継たる明治天皇が何故南朝の楠木正成を新生日本の精神支柱に持ってきたのか。本当の明治天皇、孝明天皇の子供睦仁親王は大室寅之祐に摩り替えられたのだというヨタ話は以前から聞いていた。その大室が南朝の血筋を引き、フルベッキ写真の志士達はその事を企んだ一党であり、佐賀の乱も西南戦争もみんなその「知った者たちの口封じ」であり、維新後の日本が南朝の価値観の中で動かされてきた、という「解説」は面白すぎる。
政治の裏側は何時も謎に満ち、生身の人間の欲望を抉り出し、真実を遥か彼方に置いて来ていて野次馬にとってもう嬉しくてしょうのない話の種になる。
今日は十三夜、いまは雲に隠れているが帰宅したときは綺麗な月が見えた。
写真は朝の八石山。なんて美しいふるさとなのだろう!
八石の向こうは小国。南北朝の頃小国氏は南朝により、落ち延びてきた以仁王を匿ったという伝説を今も大切にしている。
小さな鯖石郷にも幾つかの城跡があり夫々に新田方、足利方に分かれて闘った昔話を聞かされてきた。ここに来て途絶えてしまったけど・・・。直江兼継の「天地人」でそんな昔話が又語り継がれるといいな。