偽りのリアリティ
「人間を幸福にしない日本というシステム」と言う本がある。長らく本棚の肥しになっていた。
著者はオランダ人ジャーナリスト、カレン・ヴァン・ウォルフレン。どういう人か知らない。
「この人生はどこかおかしい」と多くの日本人が感じている。それは何故か?
そんな書き出しでこの本は始まる。
言われてみれば個人生活も会社勤務も、まして公的な会議などはいつも「建前」の中で進み成り立っている。どこかおかしい、だけど誰も発言しない、自分も何故か黙っている、そんな経験は誰でも持っているのだろう。何故?
「偽りのリアリティ」
本当のことを、怪我の正体を、絶望の深淵を誰も覗こうとはしない。現実を直視し、時に傷口に塩を塗りこむような痛みの中から、やっと本当の姿が見え、何をせねばならないのか判って来る。
この本もシンドそうだ
賛美歌
挙式の1週間ほど前、石井君に「考え直すのなら今のうちだぞ」と耳元で囁いたが「絶対にありえません!」て叫んでいた。今日初めて嫁さんを見て「当然だ!」と納得がいった。
彼が一途の愛を貫いたのも、彼女の清楚な温かい人柄に魅せられたからなのだろう。いい花嫁さんだ。
教会での結婚式で賛美歌312番「慈しみ深き」が歌われる。涙が滲むほど好きな賛美歌なのだが、何故かその後に胸が苦しくなり、気持ちが塞ぎ込んでしまう。この歳になってと思うのだが、時によりしどろもどろになってしまう。引き摺ったまま披露宴のスピーチで、お祝いの言葉に元気が篭らないことも過去にあった。若いころの母が、子供をあやしながら賛美歌を歌っていたと言う話が無意識の中に思い出されるのかもしれない。
石井君の披露宴スピーチは何とか切り抜けた。ただ、あんなに好きなシャンパンが途中でストップしてしまった。しかし最後まで、雰囲気を壊すこともなくめでたく式を終えることが出来た。
華やかな、いい結婚式だった。
以下無用なことながら・・・
司馬遼太郎バリに格好つけて・・・
別段何の期待もなく安倍内閣が発足した。内閣の顔ぶれは良く判らん。別にどうでもいいことのように感じている。あまりいい心情ではないな。
で、国会の代表質問が始まった。テレビ見ていて、オヤッと思った。質問も答弁もみんな棒読みなんだね。議会は質問者が事前に質問趣旨を議会事務局に届け、質問の担当課長が答弁書を書き、質問者も長もそれを只棒読みするだけ。茶番だね。有権者を馬鹿にしてませんか、と並な口は利きたくないが何か情けないものを見せ付けられている気がする。チャンネルをさっさと変えたがね。
で、また驚いた。
キタチヨウセンのTVアナウンサーが原稿を全部棒読み。せめて真正面を向いて喋る「雰囲気」だけでも出来ないものかと・・・日本の議会と北朝鮮のTVとまるでコピーみたいな類似性があった。やんなったなぁ・・・。
写真は新潟古町芸者の***さん? 名前忘れた。
般若心経
秋は本を読むのが楽しい。
と言っても、活字の上を目が滑っているだけなのだが・・
「マオ」を読み進むうち気分が滅入ってきて、あの本は中断した。中国の現代史の凄さ、と言うか彼の国がやっと辿り着いた現在の喜びをもっと知るべきなのだろう。
今も混沌の中ではあるだろうが、中国の長い歴史から見れば、現代中国の建国の苦しみから見れば、今は夢のような時代、なのかも知れない、と思った。
今は玄侑宗久の「般若心経」を読み出している。
仏教と言う宗教を哲学と自然科学の視点で解説してくれると俺にも理解できそうだ。
西洋から出発した自然科学による合理性は限界に来ているように思う。自然科学で説明できないものを無視し続ければ未知なるものは全て怪しげなものになる。言葉を用いた理知的な解釈はバーチャルなものでしかなく、体験的に感ずる全体性はリアリティを持って人と共感できる。
コンピューター社会はリアリティが欠如し、バーチャルの世界から出ることをしなければ、常に自分が絶対的に正しく、他者は異教徒であり存在しないものにしなくてはならないようになる。
人間は刻々と移り変わる存在であり、理知的な理解をした瞬間に別の存在になっている。人に六道があり全体像は計り知れない。
経営的に見れば、人を一つの評価で語ることは難しい。全体的な人の素晴らしさと可能性を持つと信じるべきなのだろう。
「移動が人間を利口にする」
他の本にそんなことが書いてあった。移動時間が人間に深く物事を考えさせる契機になる、と言う指摘は当たっている。2地域居住が生む活力も大切にすべきだと。
写真は新潟産業大学学生のウイハンさん。中国で既に医師免許を持っているが、来年は東大の医学部に進みたい由。夢を持った人というのは魅力的ですね。