生き恥を曝す
昨日朝は雪がちらついていたがお昼近くに青空が覗き、素晴らしい気球日和となった。家の近くを散歩し、この写真を撮っていたら片貝の友人から「小粟田原に気球が浮いているぞ。22機だ !」と携帯に電話入った。
もう30数年前、雪が少なく開催が危ぶまれた時、兄弟に雪乞いを頼み、彼等は朝方まで酒を飲み続け、窓を開けたら雪が降っていたと泣きながら電話してきてくれた生涯の友人達。
風船一揆は遠くなったけれど、やはりまだ近いのだ。
祭りの前日、金曜日は高本さん夫妻と黒ちゃんが小千谷に来てくれて金子と「いこい」なる居酒屋で飲んだ。10人も入れないカウンターだけの店だけど、カジカ酒が売りのいい店だった。
高本さんの奥さんは新宿「美濃吉」の女将。こんなゴールデン街を彷彿とさせる店には似つかわしくないが、すっかり寛いで話の花が咲いていた。いい時間だった。
閑話休題
長生きをし過ぎたせいもあるけど、色々なことで「ガックリ」することが多くなった。
友人達と話していて、全て自分の不徳の致すところだけれど、爆笑の中の一言が、自分の言動に違和感を抱いていた部分を掘り起こしてしまう。
友人達の話に棘があったわけではない。
「ああ、そうだったのか」と思い至る。もう一つ竹の節にする機会を得た、優等生的にそう考えるべきなのだろう。
何かと言えば、年齢と共に後期高齢者は昔の思い出を語る。
生き証人がいなくなった過去の話なんか「ホラ話」にしか過ぎないし、聴く人達にとって何の意味も無いことなのだ。むしろ不信感を生むことになるのだろう。気が付かなかった。
落ち込んではいられない。俺にはまだまだ竹の節が必要なんだ。生きている限り、俺は何時も夢を語っていたい。それが俺なんだ。
愛も欲しいのだけれど・・・
噂話、そしてサイコパス
「噂話」に褒める言葉は少ないが、概してマイナス・イメージを拡散する事が多い。余り有り難くないが、本人の心情とは懸け離れているけれど、案外と真実を伝えているのかも知れない。
意識的に不利な「噂話」を流される事も多いが、全く関係の無い人が発信源だったりする。げに恐ろしや「井戸端会議」
さて、「サイコパス」
文春3月号に掲載された中野信子の「トランプはサイコパスである」を読んで納得することが多かった。
彼が意識的戦略的に世界を攪乱しようとしていたのなら、彼の発言も分かる。しかし、「マジ」に叫んでいて、「もう一つの真実」ではないのだ。
「ウソがバレても、むしろ自分の方が被害者であるように振る舞う・・・・」中野信子の文芸新書「サイコパス」にそんな記述がある。
これは意識的な「ウソも方便」ではなく、立派な精神病質らしい。
どうも、俺もそうなんかな ?