藍沢南城を語る会 原稿メモより
平成6年11月6日、「藍沢南城を語る会」が市内中加納光賢寺で開催された。没後130年、遅すぎた嫌いはあった。しかし、内山知也先生が「南城 詩と人生」、目崎徳衛先生が「南城三余集私抄」を相次いで刊行されたのはやはり何かの奇縁なのかも知れない。その縁に繰られて「鯖石郷土史クラブ」(長谷川文夫先生主宰)は藍沢家墓地、三余堂跡、坂の登り口や南条集落の入り口に木碑を建てた。午前中は現地を訪れ、午後の「語る会」は盛会であった。地域の教育者を偲ぶ会は温かい雰囲気に包まれていた。近所の人、南城の血筋に連なる縁者、研究会の方など約100人。講師は内山先生と目崎先生。本堂のご本尊に見守られて、お二方の講演に熱が入った。
「先生浮名を求めず、教育を以って任となす。我ら幸せなり」。700名を超える門弟を育て、やがて「地の塩」となって郷土を支える人材が輩出していった。その門人達の先生評だ。近づいている幕末の激動に振り回されることなく、冬の寮で炬燵を囲みながら子供達と語らう先生の背中が見えるようだ。「人はどう生きるべきか」。三余詩集の巻頭を飾る「南条村」は私の大切な宝である。
南城の学統から「大漢和辞典」の諸橋轍次が生まれてくる。私たちはもっと藍沢南城を知っていい、と思う。
老年よ、大志を抱け 原稿メモより
老年よ、大志を抱け
Old Boys, be ambitious
石塚 修
老年よ、大志を抱け。老年は自由である。風のように自由だ、と俺は思っている。
子供達は自分の人生を歩き始め、妻には見放された。考えてみれば飯を作らせたり子を産ませたりと随分勝手な使い方をしてきた。だから「もう、嫌だ」と言うのも理解できる。
しかし、ここで怯んではならない。まして自己嫌悪に陥ったら敵の思う壺だ。
そして、ここからが大事なのだが、健忘症とか耳が遠いとか自己責任に馴染まない神の領域が待っているのだ。此れを戦略的に駆使できれば自由を獲得する日は近い、のだ。
老人は幸せである。少なくとも「幸せだ」と考えるべきだ、と俺は思う。
一応老人の定義を「還暦」とすれば、そろって「戦前」生まれということになる。子供の頃は貧しい殆ど縄文時代のような毎日を送り、やがて輝くような高度成長期を経て今また落日を迎えている。しかし、多難な時代だったとは言え、世界史的にも例のない「幸せな時代」をこの国で生きることが出来た。真面目に努力すれば必ず報われる、そんな時代がそんな国が他の何所にあったのか。前世代は赤紙一枚で努力も才能も未来も全てチャラにさせられ死地に送られた。そんな不条理から比べたらトンでもない幸せな世代なのだろうと思う。
また若い人たちを羨ましいとは思わない。「暗闇」を知らない世代は明るく陰影がない分、人生のヒダ、味わいを知らないのではないかとさえ思うこともある。人生の尺度として比較しようもないが、「夢」を持てたし、プロジェクトXもあった。自らの力で手にした鳥肌の立つような感動を記憶の中にいくつか残している。
今、未来が見えないから不安だと言う。
老人は自由である。いや、自由になれる、と俺は思っている。
リタイヤし初めて本当の人生があるのかもしれない。妻子を養い会社の発展を願い、時には媚を売り時には人を裏切り時には胃袋の裏返るような酒も飲んできた。誰にも本音が言えず、「もっと違う人生」を夢見て流れる雲を眺めていたこともあった。
我々に残された時間はもう少なくなっている。どう考えても、残り僅か50年。そんなにないかも知れないが、元気でさえあればもう一勝負は出来る。車と同じで人間も長持ちするようになった。人生50年が平均寿命80歳になった、とすれば6掛けの人生なのだ。60歳は気持ちも身体も昔で言えば40歳。まだまだ若い、のだ。でもあんまり調子に乗ってこんな話をしていると役人が飛んできて、年金の支給年齢を上げたり老人税を取ろうとしたりする。
子供達にも注意しよう。「可愛いでしよう!」なんて催眠術懸けられて孫をあやしている場合じゃねぇぞ、って言いたいね。孫を預けて夜中まで遊んで財産むしり取ろうってんだから性質が悪い。皺を伸ばし、ダイエットし始めたら女房も完全に敵方に寝返ったと思って間違いない。「気を付けよう、暗い夜道と古女房」
で、結論。老人よ、大志を抱け!
ここまで言えばいくらお人好しでも次の行動は見えてきただろう。そう、財産持って逃げ出すことだ。少しの期間でもいい。精々1週間くらいでいいけど自分が何者でもない、知らない土地で自由に過してみるのもいい。痴呆症と間違えられ、強制送還が落ちかも知れないが、一度自由を味わった心と身体は一味違った精彩を放ち、違った人生を与えてくれるハズだと思う。残り僅かな時間しかないが、黙って風雪に晒してしまうこともないだろう。
人生は不思議だ。願ったことは実現するし、時には天候すら味方をしてくれる。しかし、願わないことは何も実現しない。どんな時にでも前向きに生きる、ってことは素晴らしいことなのかも知れない。
寒くなりました。まだ余震も続きます。お体と奥さんに気をつけて。
健忘症という、個人の責任に属さない神の領域
風船共和国 正史 原稿メモから
越後風船共和国 正史
おぢや「風船一揆」の物語
白い雪原に色鮮やかな熱気球が舞う「風船一揆」、今年は31回目を迎える。もうすっかり雪国小千谷の早春の風物詩として定着し、多くの人たちに親しまれている。この祭りの仕掛け人として、大らかな時代の、些かの自慢話も含めた物語をお許し頂きたい。
神に導かれるままに我々が「小粟田原」に降り立ったのは、日本暦で言えば昭和51年10月3日のことであった。日本国の歴史は高天原に始まり、越後風船共和国の歴史もまた小粟田原より始まる。混沌とした創世記は数々の伝説に包まれ、ロマンと冒険とが新しい時代を切り開いてゆく。欺瞞に満ちてはいるが・・・。
その日われら柏崎熱気球苦楽部「かぐや姫とその一味」は朝から戦慄の中にあった。早朝、加納から飛び立たせた熱気球「かぐや姫」は離陸後暫らくして2人を乗せたまま北条の山の中に消えた。追跡車で探し回りながら、気球に乗れなかった我々は狂喜していた。「やつらは死んだ、次は俺だ!」正直に言って日本では7番目の、出来たばかりの我々の熱気球「かぐや姫」の方が心配だった。だって実際の熱気球に乗った人なんて日本でもまだ何人も居なかった訳だから・・。冗談が次第に小声になり、必死の捜索が続いた。北条、山潤、広田、小島、長鳥・・・成沢まで行ったり来たり、道行く人片っ端から捕まえては「気球見なかったかね」と聞いた。「気球・・? へっ?」 誰も見たものはいないらしい。数時間後山道に打ち捨てられた彼ら見つけとにかく一安心。聞けば道もない山の中に不時着し、藪を掻き分けやっと道に辿り着いたという。丁度農家の人が通りかかったので「此処は何処だね?」と聞いた。爺さんは不思議そうに「おまえ、何処から来た?」「うん、山の方から!」「山の上なんて道なんかないだろうが?」「うん、俺、空から来たんだ!」「・・・そうか、そうか、ふぅーん」爺ちゃんはそのまま行ってしまった。「空から降りて来たぁ?・・・バカが!・・」角を曲がって直ぐに、ジサマの吐き捨てるような独り言が聞こえた、と。
道なき道を燃料のガスボンベを担ぎ上げ、気球を広げればそれだけで埋まってしまうような小さな谷から「かぐや姫」はこの日2度目のフライトに入った。山を越え、谷を超え、そしてまた山を越え、秋晴れの青空をわれらの熱気球は誇り高く、威厳すら漂わせて飛行を続けていた。「行けぇー!」我々も叫び続け、この日2度目のトランス状態に入っいた。
午後0時20分、本当に神に導かれるままに俺達がまだ地名も知らなかった「小粟田原」に「かぐや姫」は舞い降りた。多くの見物人に囲まれ、照れくさい輝かしい秋の日だった。翌年、この地で第1回「風船一揆」を開くことになるなどその時は思いもしなかった。
俺が、ぼんやりと気球に乗りたいなんて思い始めたのは「素晴らしき風船旅行」や「赤い風船」の映画を見てからだろうと思う。東京と横浜の夢に挫折し、故郷に戻り、新しい夢を捜し求めていた。ある日、若葉町の近藤塗装店で仕事の打ち合わせも終わり、若親分の近藤正雄氏と「運命の対談」に入った。「おい、熱気球作って空飛んでみないか」全く唐突な俺の誘いに「面白しげだねか、やろうて」とこれまた唐突な答えが返ってきた。「ところで、熱気球って何だね」俺は一瞬にしてこの男が好きになった。少年マガジンのヨーロッパの熱気球大会の写真が唯一の資料だった。京都大学の学生に出来て、俺ら土方や職人に出来ないことないだろうとばかり「日本で2番目」の気球を目指し、5人の仲間と2年間大久保神社で夜な夜な酒を飲んでいるうちに熱気球は出来た。世の中、何とかなるもんだ!。
昭和52年3月、俺達は小千谷市小粟田原で「嫁よこせ!」のムシロ旗を立てて、第1回の「風船一揆」を開催した。参加気球7機、東京、京都、広島から、そしてアメリカの気球野郎も加わり、雪原にカラフルな熱気球が舞い、炸裂するような早春の祭りが始まった。宿は中鯖石コミュニティ、除雪も会場作りも交通整理も食事作りも、みんな風船共和国の仲間の手作りだった。
56年から当時の星野行男小千谷市長、片貝花火-四尺玉の本田善治観光協会長の本格的な支援が始まり商工会議所も巻き込んで小千谷市の冬の一大イベントとして新たなスタートを切った。昼間の雪原フライト、夕方のバルーングロー、そして夜は全国から集まった気球の仲間、地元のスタッフ、観光客、一般市民を合わせ数百人の大パーティが夜の更けるまで続く。あれから30年近く、今も首謀者は朝日木材の金子修一氏が続けている。昨年、世界航空スポーツ協会から小千谷市と越後風船共和国は30年の表彰を受けた。世の中、何とかなって行くもんだ!
悪さ古稀の時代 原稿メモから
悪さ「古稀」の時代 新
石塚修
いつの間にか古稀が近づいていた。
俺が「古稀」ねぇ・・まだ「あんちゃ」だと思っていたのに、残り50年もないのかぁ。
両親ともに短命で、その親の祈りか、自分達兄弟姉妹は7人とも健在で長姉は90歳になる。時折電話すると日本古代史の話に花が咲いたりする。だから、ヒョットすると後50年も満更・・・。
2020年2月21日、「70歳死亡法案」が可決された。日本国籍を有するものは70歳の誕生日から30日以内に死ななければならない。と、そんなギクリとする小説が発売されている。現代版「姥捨山物語」で、些かむかつきながら読み進めている。そんなバカなと思いつつ、ただ現代の財政のままではやがてみんなが「地獄」に落ちざるを得ない。今の統計を見れば、そんな未来も案外間違ってはいないのだろうが、なんか、嫌な本だ。
これから、静かに議論を呼ぶのだろうが、まだもう少し時間がある。元気な今の中に、好きな酒を楽しむことが最優先される。「酒乱生人生論」を掲げた者としての責任だ。
古来、人間は酒に溺れてきた。
酒乱学史的に言えば、酒を飲むことに歓喜を叫んだ動物が人類に進化したのだと思う。、我らはその末裔のだが、考えてみれば、酒を飲むと言う行為は人間特有の文化ではないかと思う。一杯の酒の為に、人を愛し、人を騙し、泣き叫び、笑い転げてきた。酒乱とか錯乱と言われる中で、飲酒後のその精神的不安定性から自己欺瞞するために哲学が求められた。ただ、一度だけの生、「人生如何に生くべきか ? 」と真剣に考えたら酒に行き着くしかない。
只一度だけの生、後ろ向きの、暗い酒では何の解決にもならない。青春の彷徨の記憶がまだ黒い影となって残っている。東京での崩れた学生生活から柏崎に帰り、建設現場で頭ではなく身体全体で生きることを教わった。汗にまみれ、酒にまみれ文字通り裸の付き合いは、多くの仲間を創り、「柏崎熱気球苦楽部」が動き出し、冬には職人達による老人宅の雪堀支援「雪援隊」が活躍し、そして[パソコン村]が生まれた。
坂本龍馬の海援隊、中岡慎太郎の陸援隊、そして石塚の雪援隊は多くの人達に喜ばれた。市から雪に潰されそうになった老人宅の雪堀補助金が出て、中鯖石・南鯖石の冬場仕事の出来ない職人さん達を、雪堀に動かした。当時冬至手に入れたばかりの熱気球は日本2番目の手製熱気球を目指しながら、大久保神社に集まって酒を飲み、夢を語っている中に6番目になってしまった。熱気球の仲間は全国から集まり、京大や同志社等の関西勢、筑波大や慶応等の関東勢が我が家の庭の15坪のプレハブ小屋「柏崎気球会館」に50人もが集まり、昼間は越後の空を飛び、夜は寺泊のカニと日本酒で盛り上がり、学生達の熱気で「酒乱性人生論」の臨時講義が始まる。「人生如何に生くべきか」は「旨い酒を飲むためにどう生きるか」と翻訳できるのだ、と超理論の講義はいつも行き成り絶好調を迎える。「美味い酒が買える「仕事」を大切にしろ、自分の「話の泉」を持て、そして飲み明かしても語り尽くせぬ「心友」をもて・・・」と。
健全な酒は、日本の若者を、素晴らしい未来に旅立たせる。
「風船一揆」もみんなで酒を飲み、みんなで夢を語り、やがて夢は次第に形になり、大空を駆け巡るようになった。日本2番目を目指した熱気球は、大久保神社で生まれ、大洲で初係留に成功し、中鯖石から飛び立った気球は北条の山で行方不明になり、墜落した場所から再び立ち上がった気球は風の中を舞い、小千谷市小粟田原に降りた。
当時の星野行男市長、4尺玉花火の本田善治さんや多くの人達と夢を語り、春を呼ぶ風物詩「小千谷雪原祭り」が始まり、今年は第36回「風船一揆」が開催されることになった。
36年間、小千谷市役所、商工会議所、観光協会、各町内会、ロータリクラブやライオンズクラブ、みんなが一緒に冬の祭りを創り、楽しんでいる。
45歳で建設業から情報通信サービス業に転身し、25年目を迎える。そして今年は「古稀」。真面目に生きてきたつもりだが、人は「ワルサ古稀」だという。
海の柏崎、海水発電は夢か ? 原稿メモから
海の柏崎、海水発電は夢か ?
石塚 修
3.11東日本大震災から3年が過ぎた。
震災3ヶ月後の現地は凄まじく、地震と津波に壊滅させられたあの光景を忘れることは出来そうにもない。様々な人生と歴史を育んだだろう街も集落も消滅していた。田畑に草が生え、残った人家にも人影はなかった。
特に、福島原子力発電所から20km地点に設けられた南相馬の検問所には大きなショックを受けた。柏崎刈羽原子力発電所の軒下に棲む者として、単純な話ではない。
「チェリノブイリ ⇒ スリーマイル ⇒ カシワザキ」との暴言を吐き、大顰蹙を買っていた時もあったが、「フクシマ」で現実のものになってしまった。柏崎刈羽原発も中越、中越沖地震と続く震災で大きな被害受けたけれど、「大事」には至らず、「安全神話」は生き続けていた。「経済的恩恵」の中で、考える事を「麻痺」させていたのかも知れない。「フクシマ」の後、「想定外」という言葉から現実に引き戻された。100%の安全はあり得ないことなのだ。そう言えば、あの地震の後の「補修」は大丈夫なのだろうか。
火力発電所の原油輸入による負荷は日本経済を大きく変えている。安倍政権の下で「原発再稼働」が現実味をおびてきている。本音を言えば、「フクシマ」の現場を見た身には柏崎刈羽原発は再稼働して欲しくはない。しかし、「廃炉」は正しいのか?
原発に賛同し、建設に参加した者として荒浜のあの広大な原発敷地が廃墟になるは見たくない。「廃炉」と「再稼働」の間に何かないのか。原発を「再稼働」させてもやがて耐用年数が過ぎ「廃炉」の季節が来る。ならば「再稼働」の先に「新しい発電所」を再構築出来ないか。
もし可能ならば、地元の経済人の1人として、次の安全な発電が出来るまである期間は耐えよう。ただ、いつ来るか判らない災害におびえ続けることになるのだが・・・。
柏崎刈羽原子力発電所の灯りを見ながら時折考えることがある。
この土地で生きていくために、豊かな経済が必要だ。柏崎の既存の産業を成長させ、更にこの土地でしか出来ない自主自立の産業を育て、雇用を生みだし、老若男女の笑い声が響き合う「柏崎・刈羽」をもう一度再現できないのだろうか。みんなが目を輝かせて夢を語り合う「柏崎・刈羽」をもう一度取り返せないのだろうか、と。
柏崎刈羽原子力発電所の灯りを見ながら時折考える。
核燃料の代わりに、目の前に拡がる「海のエネルギー」を使えないものかと。海水から水素を取り出し、燃焼させれば、また水に戻る。「万能細胞」の例もある。不可能を可能に出来る時代が目の前に来ている。そして、海は世界に拡がっている。
柏崎は石油、原子力と続くエネルギーの町である。「海」を次世代の新しいエネルギー源として活用する世界的な研究・実験・実現都市・柏崎の再生が出来ないのか。
人は夢があれば生きて行ける。それと・・・お金と・・・。