梅雨入り

2015.06.21 風の戯言


 八石山(やま)霞み葵の花の色淡し    草風

 窓に来て嗤うは誰ぞ蛍一匹       草風

 海淡く御仏参らす岬かな        草風

 昨日は岬館の親爺の葬儀で些か気が滅入っていて、今日も元気が出ない。梅雨入りのせい、なのかも知れない。

 遠くで雷鳴が聞こえ、ベッドに潜り込んで仕方なしに「文春」を眺めていたら、石原慎太郎と佐々敦行の対談に目が行った。あまり好きなタイプじゃ無いので読み飛ばしていたらしい。

 中に、信長の「敦盛」
  「人間五十年 下天の内にくらぶれば 夢幻の如くなり
   一度生を受けて 滅せぬ者の有るべきか」
 あまりにも有名で、自分も好きな言葉(小唄)だけれど

 安吾が引用している小唄として石原が紹介しているのが
  「死のふは一条、しのび草にはなにをしょぞ、
   一定かたりをこすのよ」
 というのがあるという。

  「人が死んだ後にみんな勝手なことを言いやがるが、
   死んだ人間にはバカみたいな話だ」という意味らしい。

 信長と安吾らしい。

 秀吉の辞世はバカ有名な
  「露と落ち露と消えにし我が身かな
   難波のことも夢のまた夢」
 だけれど、少し作りが多いようだ。

 人は生まれ、人は死ぬ。他に何があるわけでは無い。

 鯖石川の堤防が、最近は最愛の散歩コースになった。
 八石の山を眺め、黒姫を拝み、時により苗場が遠望出来る。

 終焉の地を故郷小千谷に定めた詩人西脇順三郎が、山本山を散歩するのをこよなく愛したという話を思い出している。

小さな宇宙人と慈母観音

2015.06.16 風の戯言


 妻にとってみると、自分の子供の子供、孫は特別な存在らしい。

 2人の子供が小さかった時、熱があるのに仕事に向かわなければならなかった心の痛みは、時折マグマのように吹き上げてくるのかも知れない。

 自分の母親の葬儀にも休むことが出来なかったことも、辛い思い出となっているようだ。

 だから、孫を自分の腕で抱き留めてやれることが何よりの幸福なのだろう。

 男には解らない世界がある。

 娘の2人の子供に纏わり付かれると、俺には向けたことの無い笑顔がそこにある。

小さな宇宙人 楓 君

2015.06.12 風の戯言


 6月1日(月) 夜10時過ぎ「生まれたよ」の電話を受け、翌2日生誕の地 鹿島まで行ってきた。

 日本を水平に横切ったような太平洋岸まで、新幹線と高速バスを乗り継いで、小さな顔を見て安心しトンボ返り。

 仕事の合間を縫って、この日しか無かったような幸せな旅だった。

 子供は順調に育ち、写真は生後10日ほどのものとか。

 これで、孫達は3人。
 俺にも、こんな日を迎えることが出来たのだなと不思議に感じている。

バラにバラの花が咲き・・・

2015.06.07 風の戯言


 今年もバラが目を楽しませてくれている。
 手入れが行き届かないのに、几帳面に花をつけている。

 庭に少し手を加えたら、黒姫山が見えるようになった。
 電柱と学校が邪魔になるが、何時か壊してやる。

 八石の山は緑に覆われ、遠くの山にはまだ雪も残る。
 緑の葉は太陽を浴びて、輝いている。

 雪多く、住みやすい土地では無いが、次第に好きになってきた。
 藍沢南城の詩を眺めていると、師の温かい心が伝わってくる。

 命あるものの不思議さ、と
 時の流れの中で生きる人間の哀しさ・・・。

 夕日が部屋に差し込んできている。
 山口百恵の歌を思い出している。

喜多郎 空海

2015.05.31 風の戯言


 喜多郎の「空海」に浸っている。

 空海の風景を読んでいるはずなのに記憶が無い。

 ただ、このCDを聴いていると「空海の世界」に浸っているような気持ちになってくる。

 人間の哀しさ、というのか、喜多郎の曲がそれを柔らかく包んでくれる。
 暮れてゆく西の空を見ながら、諸行無常に沈み込むのもいい。

 最近になって、戦国の武将達が堂に籠もったのが解りかけている。
 
 それと、鐘の音は実にいい。