山本五十六
ここ何日間か、穏やかな天気に恵まれている。
今日は海を眺め、長岡まで映画を見に行ってきた。今評判の「山本五十六」。多少の知識と半藤一利、山本義正氏の「父 山本五十六」は読んでいるが、この映画は作る人達の熱意と、CG の細やかさが、時間を忘れさせてくれる。
「何故、あの戦争を止められなかったのか」以前から山本五十六への自分なりの評価は変わらないが、その努力の跡が少し見えてきたようだ。あの時代、身近な尊敬すべき知識人も「真珠湾のニュースは、天が晴れた様に感動した」と言われていた記憶が生々しい。狂気の時代に、「ホンモノ」を通すことは難しい。ただ、何故そうなったのか、及ばざることでありながら、やはり今でも悔しい。
山本七平の「空気の研究」でも目を通してみるか・・・。
八石は何を言いたいのかなぁ・・・
新刊の書評欄を見ていて、本を読みたくなる。
文春2月号の載った「羅針」(楡周平)、「見残しの塔−周防国五重塔縁起」(久木綾子)、「ヤクザと原発−福島第一潜入記」この三冊。
特に「羅針」 キャッチャーボートが南氷洋でプロペラに「何か」が巻き付きエンジントラブルに。発電機も止まり、氷付けになってしまう。覚悟を決め、遺書を書き始めた若い船員に敏雄船長が言う。
「あのな、一つ教えてやる。死に神はな、弱いものに取り憑くんだ。一歩前に進めば、それだけ生還に近づく。自分一人の命じゃない。俺がへこたれれば、仲間を危険にさらすと考えるんだ。この脱出行も、船の仕事と同じなんだよ。生き延びることが、仕事であり、君に課せられた義務なんだ」
−−生きることとは何か、働くこと言うことは何か、ストレートに問い掛けてくる長さを感じさせない長編小説−−
だという。
70歳が近くなって、生きる意味と、働く意味を見失い勝ちになる。自分が探し求めていたものがそこにあるのかも知れない。
写真は今日朝の八石山。
四季折々に、この山は何かを語り続けている。