カワウソの絶滅
カワウソが絶滅したらしい。
子規の獺祭忌が幼稚な頭に残り、何とも愛嬌のある仕草と共に好き、というより自分の生き方に共通するものもあり、気持ちの上でより身近な動物ではあった。
最近山道をドライブしていて感じることは、車に轢かれた狸やイタチの死骸を見なくなったこと。蛇にも滅多に出会えなくなった。家の庭にも煩いほどいたアブラゼミがホントに少なくなった。トンボや蝶、蚊やブトも殆どいない。
多分、自然が大変わりしているのだろう。
食物連鎖の頂点に立つ人間の数が多く成りすぎ、自然界の調整場面が急展開しているのだと思える。
自然は自らの意思を持っている。
人間は神の子だと自ら認識を誤り、自然の意思を理解しようとはしないで来た。科学の力で自然を制御できる、と。
もう一度、人は自然の中で慎み深く生きなくては成らないのだろうと思う。不思議なことを言うようだが、神や仏や自然に対する自分の祈りは、願いを叶えてくれている。
夕焼け雲の上に、月が出ていた。
夏雲
妙高は不思議な山で、何故か人の心を和ませる。
妙高は別名「須弥山(しゅみせん)」と呼ばれ、古代インドの世界観の中で中心にそびえる山とされている・とされているが、WiKipediaでは「須弥山」とはサンスクリット『Sumeru、スメール山』の漢字による音訳で、意訳は「妙高」という、らしい。
高校山岳部で馴染んだ山でもあり、あの山を見るとホッとする。
お盆休みに、蔦屋で福田和也の「岸信介と未完の日本」を買って来ていたので時間潰しに目を通した。『在りし日の日本』が蘇って来、夢中になっていた。
福田和也の名前は知っていても、本を読んだことが無かった。なかなかの人と、改めて知った。
そう言えば、「敗戦」の日から67年が過ぎていた。真夏の、あの日の3歳の記憶がまだ残っている。
今は3.11と福島原発の取材を通し、「失敗の本質」を暴き出している朝日新聞の「プロメティウスの罠」を厭嫌ながら読んでいる。5年前の中越沖地震も一歩間違えば、柏崎は今の福島のような事態に追い込まれていたとしても不思議ではなさそうだ。
先祖代々の生活の場を追われた人々の苦しみと絶望が伝わってくる。そんな中でも、人は何故死を選ばないのか、人間という動物の不思議さを感じる。