何の気まぐれ?
神だか仏だかデクノボウだか知らないが、何の気まぐれで自分をこの世に生かしておくのか、良く判らない。
手足を見れば、両手両足に火傷の痕がまだ残る。誰も教えてくれないが、多分鍋のかかった囲炉裏に突進して大火傷をしてしまつたのだろう。額の真ん中にキズがある。子供の頃本気で喧嘩していて投げられた石が眉間を砕いた傷だ。左の眉に残る傷痕は9歳の大晦日、2階の手摺から落下し玄関の敷石の角で切った時の傷、左手首は鎌でひまわりを切ったときに勢い余って自分の手まで切り落とそうとした傷。
思い出したくないが、左足首は鋸が折れて切った傷、膝には自転車のブレーキが突き刺さった痕。その足の裏は風呂の棚に飛びついたら落ちて割れたビンのガラスに足が落ちてきた・・・・もういいや・・・でも土木現場で死に損なったのは3度、車で2度・・・これだけ死の直前まで行ってまだ生きているのは、神か仏か何かが自分に何かをやらせようとしているとしか思えない。
もう疲れてきた。俺は何をせんばならんのだ?
故玉井先生お参り
春先に亡くなられた元信州大学教授玉井袈裟男先生の松本のお宅に伺って来た。ジャカルタの山田医師、信州テレビの三浦部長など、他に当時の探検部の学生3人ほどでお参りさせて頂いた。
俺は信州大学の卒業生では勿論無いが、自分勝手に「師匠」にした先生で、多くのことを学んだ。
知遇を得たのは昭和60年(1985)信州大学探検部の熱気球の中国遠征の時。玉井先生が団長、小松先生が副団長で学生が15名くらい、そして参謀役として石塚と近藤。中国側にとってみれば怪しげな社会人が二人混じったので随分と考え込んだらしい。
石家荘の解放軍飛行場で中国初フライトをした時、信州テレビの三浦君がクルーにテレビカメラを持たせたのが「約束を破った」行為になり、解放軍司令部での釈明に出頭させられた。団長はこんな修羅場は経験無く「石塚君、どうしよう?」状態。動機はどうあれ「約束違反は約束違反」。ここは速やかに謝れとアドバイス。重苦しい司令官室での謝罪は冷や汗が出たが、中日友好協会の未来も考え厳重注意で釈放。
今考えると、妙に懐かしく、また夢の中の出来事のようで現実感が無い。でもその難局を乗り切ったことで先生との距離はぐっと縮まり、俺は勝手に「師匠]にしてしまった。
考えてみたら、訪中後もう25年が過ぎていたのだ。
その後主宰する「風土舎」にお伺いしたり、高柳の町興しセミナーに参加したり、伊那の岩本さんのところで偶然一緒になったり、先生の幅広い人脈と活動に驚き、憧れていた。
写真は松本城にて、山田医師と
上高地
ジャカルタの山田医師と故玉井先生の御仏前に26日にお参りしようと約束していた。
集合は25日の夕方、居酒屋[麻呂]さんち。だから柏崎を午後に出る予定だったが、急に一人旅をしたくなり24日午前中に会社を飛び出し、糸魚川-大町-松本をセンチメンタルジャーニー、3時頃には松本駅前の東急インに入った。
悪友達と落ち合う約束は25日の夕刻。考えてみたら丸一日自由な時間ができたことになる。25日は朝から天候も良く、松本の山々に朝霧がかかり、[今日は最高]。思い切って今生に一度は見ておきたかった「上高地」に足を伸ばす。
高校山岳部のアルプス縦走で槍ヶ岳までは来たが穂高は見ていなかった。以来俺の中では[上高地]は夢だった。こんな形で実現しようとは思いもしなかったのだが・・・河童橋も梓川も穂高も、もう思い残すことは無い。
途中[乗鞍高原]の看板が見えたので進路変更、暫らく走ると体内の危険信号が点灯、無視すると碌な事が起きない。子供の頃からのこのシグナルだけは信頼している。迷わず引き返す。心残りはない。
モヤモヤしていた「欝」は雨散霧消してしまつた。
メリー・ジェーン
人は生まれ、生きて、死ぬ。
だから、人は死ぬ日に向かって生きている・・・池波正太郎
こんな当たり前の言葉が心に残る時は大抵酷い「欝」だ。季節的にも稲刈りシーズンは毎年体調不良に陥る。なんでかね?
しかし考えてみたら、もう此処何年も週に2回の鍼治療、そして週末のマッサージ。この何の役にも立たない身体を維持するために殆ど透析に近い治療を必要としていることになる。他に栄養剤数種。多分そんな日常も限界に来たのだろう。
普段は月曜から金曜まで走り続け、土日は家で書類整理をやる・・・会社でじっとしていられない性分は、決して褒めたものではない。もう少し「利口」であっても良いのだろう。
一人の事業家として、文字通りの激動の時代を生き延びてきた、良くも悪くも、そのことは正しいのだろう。しかし、人間の幸福とは何かを絶えず問い続けなければならない。
人は生まれ、生きて、死ぬ。
その「生きる」というのは、途方も無い努力の積み重ねなのだ。自分でも身悶えしながら生きてこそ、多少は人の役に立つ、のだろうと思った。
しかし、もう少し遊べ、とそう結論付けた。それでいいのだろう。
22日、急に小千谷の須坂屋の蕎麦が食べたくなり車を走らせた。店の支払いを済ませて、「親父さん」の消息を聞いてみた。自宅で悠々と畑を楽しんでいる。そして時折「おぢや雪原祭」の始りの頃を話している、と。30数年前のことを今も話しててくれる事を知って、思わず目頭が熱くなってしまった。「欝」の時にはこんな話が何よりも嬉しい。
車を走らせながら、「つのだ・ひろ / メリー・ジェーン」を繰り返し、繰り返し聞いていた。一滴一滴水が吸い込まれるように心身を満たして行く。音楽って良いものだ。
写真は小粟田原、カントリーエレベーターの近くから長岡方面を見る。かつてこの雪原から数十機の熱気球が飛び立ち「おぢや雪原祭−−嫁よこせ、風船一揆」が開かれていた。
戦前には軍の隠し飛行場があり、蒋介石が此処にいたことがある、と古い本で読んだことがある。
秋晴れの空に誘われて
19,20日と柏崎に集まったミュージシャンが街のあちこちの店でジャズを聴かせる音市場。経麻呂さんと近藤淳ちゃんが目的で2,3の会場を追いかけた。淳ちゃんの歌に厚みが増してきて、涙が出そうになる。
最近[欝]が強いと思っていたが、友人は「稲刈り時期だモノ」という。金木犀の花の香が闇間を漂う時期と重なると俺の「身体と心の痛み」がぶり返し、生きる意味も欲望も何処かに見失ってしまう。最近は「どうせ歳なんだし・・・」と自虐的な追い込みも掛けてしまう。参るね。
しかしまた、心に開いた傷口を覗き込んでみるのも、楽しくは無いけど・・・自虐的な面白さもある・・のだ。
秋晴れの夕陽に誘われて、ぶどう村から黒姫山を覗く。
来年はこの牧草地の一端を借り、「綿羊」の放し飼いが出来ないかと、ひそかに案を書いている。主宰者団体「柏崎綿羊保存会」なんてね、民謡の連中に怒られるかな。
この場所は刈羽三山に囲まれて、人家の明かりはほとんど見えない。星空が綺麗なんだよ。
そうか、秋の一夜を星達と語り明かすのも良い企画かもしれない。みんなが星空を忘れているもんな。
娘の娘が今日で1歳と1ケ月。
そんな娘が始めて5,6歩 歩いた。嬉しいもんだね。