才能と仕事

2009.07.03 風の戯言


 「人間の才能は、多様だ」 と継之助はいった。
 「小吏に向いている、という男もあれば、大将にしかなれぬ、という男もある」
 「どちらが幸福でしょうか」
 「小吏の才だな」継之助は言った。
 「藩組織の片隅でこつこつと飽きもせずに小さな事務を執って行く、そういう小器量の男に生まれついたものは幸福であるという。自分の一生に疑いも持たず、冒険もせず、危険の淵に近づきもせず、ただ分を守り、妻子を愛し、それなりで生涯をすごす。
 「一隅を照らすもの、これ国宝」と継之助は、いった。
 叡山を開いて天台宗を創設した伝教大師の言葉である。きまじめな小器量者こそ国宝である、というのである。
                                           司馬遼太郎 「峠」より

 人間の才能は、大別すれば創る才能と処理する才能の二つに分けられるに違いない。西郷は処理的才能の巨大なものであり、その処理の原理に哲学と人格を用いた。
                                          司馬遼太郎 「歳月」より

 人生は短い。だけど走り続けさせられた人間にとってみれば、嫌になるほどの長い距離なのかも知れない。
 時折、もういいかな、と思うこともある。人間の時間には限りがある。だから「人間の命なんざ、使う時に使わねば意味がない」(峠)し、命なんて棄てる時に棄てなければならないのだろう。それが命懸けの仕事かどうか、ナンテ大した意味は無い、と俺も思う。
 さして意味も無いものに何故に拘る・・・単に命が惜しいだけ・・・いや、男の意地みたいなもの・・と思う。色即是空 空即是色・・・男には志、ナンテものが必要なんだろう。誰にも理解をして貰う必要はない。でなければ「志」ではない、のかも知れない。

垣根の紫陽花

2009.07.02 風の戯言


 世間並みに、此処鯖石も梅雨の香が漂う。
 垣根の紫陽花が咲き始め、道行く人を楽しませている。

 「人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということをうすうす気がついていることである。古来、気付いてきて、今も気付いている。
 人間は王侯であれ乞食であれ、全て平等に流転する自然生態の中の一自然物に過ぎない。
 人生は自然界において特別のものではなく、本来、無意味である。と仏教は見た。これが真理なら、例えば釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、しかし釈迦は人間の仲間の一人として、それでは寂しすぎると思ったに違いない。」   
                                   司馬遼太郎「あるうんめいについて」より

半夏生

2009.07.01 風の戯言


 風鈴の夜陰に鳴りて半夏かな      飯田蛇笏

 半夏生、半夏、半夏雨
 夏至から11日目の7月2日ごろのことで、雨が多く物忌みが守られているらしい。ドクダミと同属の毒草、半夏(からすびしゃく)から着ている季語なそうな。

 九州の方から大雨の情報が伝わり、土砂崩れの映像が流されている。水に過不足なし、というけれど最近はお天道様の蛇口が緩んでいるらしい。期待以上の雨が降り、オタオタしていることが多い。
 しかし、山道を走るとこんなに深い緑に恵まれた土地があるのだろうか、と思う。そして「緑に囲まれて生活している奴に悪人はいない」となる。その先は忘れた。

生命の不思議?

2009.06.30 風の戯言


 庭の隣に35坪ほどの畑がある。

 春に植えたトマトや胡瓜が、実を付け始めている。

 バラにバラの花が咲き、
 トマトにトマトがなり、
 胡瓜に胡瓜がなる。

 何の不思議もないけれど、考えれば不思議な自然の恵み。

タイトル無し

2009.06.28 風の戯言


 3夜連続で「焼酎」と「山崎」で〆たら、やっぱり来た!。24日は2次会で焼酎5本空け(12人)、25日は焼酎1本(2人)、昨日の未完成ではショットグラスを何杯重ねたのか、よく分からない。脳は破壊されたが身体は元気、今朝も5時ごろから散歩している。(徘徊じゃないぞ!)