夢の森公園

2007.09.30 風の戯言


 週末、楽しい酒の三連荘で土曜日は完全にアウト。今日は意を決して午後から小雨の中を夢の森公園初散歩。おばちゃん四人組に会っただけで、半周コースで切り上げ。チョット物足りなく、60億がどこに掛かったのかチト不思議な気もする。
 柏崎人は欲しいと言えば何でも苦労せずに手に入ったので、次々と目新しいものに目が移って、一つのことをを楽しみ育てることが不得意な人種かな、と思わぬでもない。

 山道を歩いていると栗が落ちていたり、まだ青いドングリが散らばっていたりする。昔はこの辺りの山からマツタケが採れたそうだ。毎年秋になると市場に100万円ほどのマツタケを持ち込む人が居たと。その人が亡くなってからマツタケの話は聞かなくなった、とタイムスの吉田さんがテールランプに書いていた。誰にも教えなかったのだろう。そんなことを考えながら、まだ早い秋を楽しんできた。

 週刊文春の岸信介の記事は戦後混乱期の解明に参考となる。そのことはさておき「岸はまるで草花を育てるように忍耐強く米国に友人を作ろうとしていた」との記述があった。友人、或いは人脈は草花というより林をと似ているのかもしれない。長い、濃密な時間が必要なのだ。時の流れのまま自然に伸びた幹や枝に庭木に無い深い味がある。損得ではなく、その人と話できることが楽しい、そんな感じ。

 前の庭にコスモスが咲いていた。

塩水が燃えた?

2007.09.25 風の戯言


 ペンシルベニア州立大学のラストム・ロイ教授がラジオ波の発生装置を利用し、塩水を発火させることが出来ると言う発見を検証した。「火がつくのを見たら鳥肌が立ったよ」
 研究が進めば水を燃料に替えることが可能になるかもしれない。−−−Newsweek 今週の名言・珍言より

 水はH2Oだから最期の可能性、夢として残る。案外と愉快な未来が待っているかもしれないな。

美しい国はどこに行く?

2007.09.24 風の戯言

 国は、その国民のレベル以上の指導者を得ることはできない、と言う。
 阿部首相の辞任声明はどんなに言い繕ってもバカ丸出しとしか言いようが無い。Newsweekには世界中があきれ返り、無責任政治に大ブーイングの記事で埋まっている。この影響はどんな形でかえってくるのだろうか。
 そして今日又福田総裁による自民党四役の顔ぶれが発表された。なんじゃらホイ!
 今の時代、国も地方政権にも気概や理念なんて何の意味も無いのかも知らん。全てが崩壊し、無気力な平和が新しい価値を持つ時代が来るのかも知らん。古代人としてはやりきれないな。

秋のお彼岸

2007.09.23 風の戯言


 2週連続の3連休は体調を整えるには有難い。会社の今月の業績を考えると些か不安にはなるのだが・・・そんなことを気にしていたら経営なんて出来やしない。物事には全て生命があるのだ、会社もなるようにしかならない、と開き直っている。しかし、それでいいのかなぁ・・?
 
 秋の不調は籾殻アレルギー?によるのかもしれない。そういえば毎年稲の刈入と乾燥、脱穀の季節に何日か寝込むようだ。忘れていた。季節の変わり目に疲れがピークに達するのかもしれない。どっちにしても自己制御するのに厄介な身体だ。頭の大きさの割りにそれを支える首が細いのか肩こりがたまりやすく、高校生のころから灸の世話になったりで、現在では週に2回の整体をしないと気力と体力が続かない。まぁ一種の障害者だと思って通院している。重い身体を引きづりながら、人生は己との戦いなんだろうと思っている。

 健康には歩くのが何よりと思い、カメラをぶら下げて散歩にも行き、思い立って県立近代美術館に足を運んでみた。藤城清治の影絵の世界が広がり楽しいひと時ではあった。散歩目的で美術館を覗くのは不敬なことかもしれないのだが・・・。 勢いで歴史博物館にも足を伸ばした。つい先日大学教授を案内・・・始めてゆくのに「案内」とは・・・特別展の「風林火山」を見たのだが常設館を見たかった。建物は立派だが展示物は雑然としている。学芸員と政治との妥協? 何かちと寂しい感じが漂う。もう一度見に行こう。

 ある県会議員に「おい、美術館ってばさぁ、建物よりも飾るもんの方が金が掛かるんだってゃなぁ」と話しかけられ唖然としたことがある。南無阿弥陀仏、だな。
 
 

人類の足跡

2007.09.18 風の戯言


 急に目眩と動悸で脂汗が噴出し、昨日のお通夜は中座させてもらった。原因の分らぬままに今日のお葬式に顔を出したあとで医者を覗き、自宅で静かにしている。
 もう歳なのかな、思いながらもまだ終わるわけにはいかない。静に、闘志が湧いてくるのを待つ。こんな時には古い曲でも聞きながら、気の向くままに本棚の拾い読みするのもいいもんだ。

 自分がどこへ行くかを知るためには
 自分が今いるところを知らなければならない。
 そのためには、自分がどこから来たのかを知らなければならない。
      —フィリピンに残るオセアニアのことわざ—

 「人類の足跡 10万年全史」巻頭の言葉より

 今、自分がいるのは連綿と続く生命の進化の最前線にいる、と言うことなのだ、だそうだ。環境の変化に対応し、兎に角生き延びようとした生命の結果なのだろう。現実を直視し未来に夢を繋いだものの結果、としてもいい。
 遺伝子のDNAを調べてゆくと、全世界の人類の共通の祖先にいきつくという。出アフリカ! サバンナから2本足歩行で出てきた人類の祖先、それはただ一度の奇跡に遡れるというのだ。凄い話だ。
 50年ほど前、「人間、みな兄弟」と言う写真集を見た覚えがある。父親代わりの、写真好きの兄貴の書棚にあった。
 人間、みな兄弟。そうなのかもしれない。

 人は生まれ、そして人は死ぬる。
 その当然のことを忘れなければ、人は案外幸せなのだろうと思う。修証議はそのことだけを繰り返し唱えている。ただ一度の人生をただひたすら自分の為に生きる。そのことが他人の幸福に繋がるならそれ以上望むべくもない。誰が考えたか、偽とは人の為と書く。偽り、なのだそうだ。

 人間、みな兄弟。みな、悩ましい生の時を生きている。

 人類の足跡 10万年全史