モンゴルフィエ デー

2007.11.21 風の戯言


 今日、11月21日は熱気球愛好者にとっては特別の記念日。

 1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟がルイ16世の許しを得て初飛行に成功した日として記憶されている。熱気球だけでなく、人類が最初に空を飛んだ日でもある。
 「熱気球200年祭」なんて騒いでいたのがつい最近のような気がするけれど、もう25年も以前のことになるのか!
 モンゴルフィエの10日後にはシャルルがガス気球(水素)で飛んでいる。10日の違いで二番手とされたシャルルの口惜しさが目に浮かぶようだ。

 そう言えば自分達の結婚記念日を忘れていた。2,3日前までは覚えていたはずなんだが・・・・もう35年のなる。
 秋雄兄の命日は11月25日。昭和49年、まだ54歳だった。現役の柏崎医師会長として、男盛り働き盛りの真っ最中だったように思う。カシワ自動車の須田社長が国道116号線の工事現場まで知らせに来てくれて、8号線を急ぐ空に真っ赤な夕陽があった。鮮明な記憶が蘇り、今も、込上げてくるものを抑えることが出来ないでいる。

 今朝は初雪が降って、庭が少し白くなった。体調が優れず、少し遅れて出社し、午後は産業大学の講演を無事に終わらせることが出来た。若い女性社員の協力でパワーポイントが上手く纏り、授業の一環だというのに、思いのたけを話すことが出来て、胸の中がすっきりした。

 先週金曜日、市役所で馬鹿な話で盛り上がっている内に「大晦日に追悼と復興の願いを込めて花火を揚げる会」がでっち上げられ、早速動き始めてしまった。

 明日は大雪の予報が出ている。寒々とした風が寝静まった夜の闇を通り過ぎてゆき、気分が落ち込んでいく。俺はもう65歳。未だに青臭いクソボウズのような気がしてならない。

原発と地域経済を考える

2007.11.18 風の戯言


 11月21日、新潟産業大学 経済学部科目「地域振興論」の講師として「原発と地域経済を考える」と題して講義することになった。
 いい加減な話だが、もうバックは出来ない。軽く何かを引き受けて、何時も自己嫌悪に陥る。自虐的な趣味としか思えない。まぁ、馬鹿なんだろうね。それにしても、懲りない男だなと思う。
 
 Global経済の下で地域経済を守るにはどうしたらいいのか、柏崎における原発を唯我独尊で話したいと思う。

 文春12月号の藤原正彦氏「教養立国ニッポン」は面白かった。
 かつて、日本からの輸出品は刀が多かったが、中国からの輸入は書籍がほとんどだったというのを思い出した。教養とは程遠い身ながら、稿末の言葉は美しいと思う。

 「教養を一歩一歩積み上げることで、自分が一歩一歩内面的に豊かになっていく充実感と愉悦は何物にも変えがたいものである。経済は豊かな社会を実現する為のものであり、教養は自分を豊かにする為のものである」

 
 写真は自宅前の公園にて

雪マーク

2007.11.17 風の戯言


 秋の陽光を透して、紅葉が青空に輝いている。
 
 夕刻、一陣の風が過ぎて冬の訪れを告げていった。
 天気予報に雪のマークが出始めた。

 また寒い季節が始まる。

ぶらり、ぶらり

2007.11.15 風の戯言


 相変わらず本の世界のぶらぶら歩きは止まらない。

 殆ど無定見、無節操・・・活字が読めればそれで満足なんて極貧状態は既に脱したが、一定のテーマを深堀しょうなんて欲も能力も持ち合わせていない。本は衝動買いを最善とする、なんていいながら本屋を覗くと小遣いのある限り仕込んでしまう。積んで置くだけで満足、ってこれも病気の内?

 最近は浅田次郎の中原の虹4巻に貪りついてしまったが、何の風の悪戯か松井今朝子の「吉原手引草」「銀座開化事件帖」ですっかりファンになってしまった。
 歴史小説が男達の英雄伝説だとすれば、松井さんの主人公達は塵取で掃いて捨てられるような運命の中にいる平凡な男や女達の物語。知性的な、と言うのは人間的なって意味なんだが、男と女の洒落た会話が好い。

 現代のように「好きだ」と言ってしまえばそれで済む言葉を、結局双方とも分っていて確認しあえない心の疼きがある。じれったいほど回りくどく、決めの一言がいえなくて一生ひきづってしまうようなシーンが、誰にでも2枚や3枚はあるのだ。女の手を握るのに、どれだけの勇気が要ったことか・・・そんなことが思い出させられる。

 豊富な電気のお蔭で世の中明るくなって、妖怪も幽霊もいなくなって、男の心も女の真も、みんな干からびてしまった。
 目と目が合っただけで、顔を赤らめていたころ・・・今から考えると馬鹿な時代でも、もっと深いものがあったような気がする。
 歳のせいでもなく、この本の余韻なんだろうけれど・・。

銭もなき身にも哀れは・・・秋の夕暮れ

2007.11.11 風の戯言


 静けさや 雨降る庭の 落ち葉かな

 11月も半ばに近づき、秋は足早に過ぎていく。何を望むでもなく、何に怒るでもなく、焦点の合わないまま落ち葉を眺めていると、心が満ちてくる。秋の、雨の日曜日の夕暮れは、人を正気に戻してくれるのかも知れない。

 早々と庭の雪囲いも終わり、柿の木に柿の実がなり、畑には取り残したナスが雨に打たれている。晴れた日には遊びに来る小鳥達も、今日は姿を見せない。
 2階の窓からは、公園の公孫樹の向こうに山頂を霧に包まれた八石の山が見える。見飽きない風景。

 この谷に生まれ、この谷で朽ちて行くであろうこの身は精一杯に生きたのか・・・。もう少し時間があるようだ。

 銭もなき身にも哀れは知られけり
    花街遠き秋の夕暮れ       詠み人知らず