能登沖地震
日曜日の朝を、何時もの様にグダグダとベッドの中で本を「見ていた」らいきなりズシン!と来た! 横揺れが長かったので咄嗟に「震源は東京!?」かと思った。
能登、石川、富山には多くのお客さんが居る。担当が客先の安否の確認を取り続けている。経営品質で顧客本位を説き、自分達で解っているつもりでも直ちにこんな行動を取ってもらえるのは社長としてありがたい。
近くなら客先を回る、遠くなら電話で様子を聞く、サービス業としては当然のことなのだろうが、ビジネスとしてだけでなく被災地の知人の安否を気遣うことは人間としての温かさのように思う。
現代は、人としての温かさが何よりも大切なんだろう。
写真は3月23日、柏崎の岬館からの夕陽
この夕陽の先に能登がある。
KISNET10年 古いメモ
KISNETの10年
インターネットの激動の中で
創風システム 代表取締役 石塚 修
柏崎でインターネット「KISNET」を開局して10年が過ぎた。
正直言えば、この10年の間に何があったのか良く覚えていない。決して痴呆が始まったわけでもなく、ボケは天性のもので・・・(何を言わせるのか!) とにかく新しい技術と格闘している内に10年が過ぎてしまった。その前のパソコン通信の時代を入れると約20年、
この業界がドッグイヤーと呼ばれる通常の世界の7年分だとすれば、140年この世界で生きたことになる・・・もう、南無阿弥陀仏の世界でっせ!
さてさて、平成7年12月24日、クリスマス・イヴに地域への最高のプレゼントをと、思いついたインターネットの上位回線速度は45Kbps、現在は1Gbps2回線だから2万倍にはなっている。約20年前、パソコン通信を始めた時は300bpsだから100Mbpsとして・・・解り易く言えば45Kbpsが45センチの畦道だとすれば、現在各家庭に入り始めた100Mbpsの光ケーブルは1000メートルの道幅だと考えればいい。パソコン通信の300bpsは3ミリ・・・およそどんな進化なのか理解して貰えると思う。
文字データを送るメール機能だけでもう限界に近かった通信は、私にも理解できない世界へと拡大している。
インターネット販売は取引高 兆円を超え、インターネットの普及で証券取引は一日取引40億株に近づき、旅行やオペラの予約は勿論、映像を使った医療相談、TV配信などあらゆる方面でインターネット無しではいられなくなっている。
携帯電話と組み合わせれば、もう本当に何所に居ようが関係は無い。名刺にはメールアドレスと携帯番号だけで用事が足り、郵便番号や住所なんて不要なのかも知れない。一度、信頼のネットワークが出来てしまえばもう柏崎に、日本に居る必要が無いのだ。
通信インフラも技術も利用方法も素晴らしい進歩を遂げ、道路・電気・ガス・水道などのライフラインの最も重要な価値を占めるようになった。他のライフラインは停まっても代替が利くが、例えば発電機やポリタンクで水を運ぶ等可能だが、情報通信だけはそう簡単にいかない。中越地震でその重要性を嫌と言うほど知らされた。情報のないのは暗闇より不安だ。
便利と言う世界に何の意味があるのか
が、ここに来て困ったことが起きてきた。生来のへそ曲りがかま首を擡げ始めたのだ。
雅子妃の父君小和田氏が柏崎高校で講演された時、明治維新以降日本人は精神の開放が未だなされていない、と話された。答えはわかるのに言葉にならない、そんなもどかしさがあったが最近どうやら回答用紙に書けるような気になった。
要は
テレビや新聞等のマスコミは反吐が出そうなほど同じ価値観で報道し、我々もまたそれを受けて隣人との友好よりも有名人の生活の断片をあたかも共通の友人のことのように話題にし、小泉氏の悪魔的な手法に踊らされている。もっと異端が居てもいいじゃないか。
世の中は如何様な人生の可能になり、価値観の多様化から、日本はもう多民族国家だと言い放っているけれど、どうもまだ精神の自由を勝ち取っていないようだ。
不思議なことに、人生は一回だけだ。たった一度だけ許された生、と言ってもいいのかも知れない。一方的に押し付けられた契約書みたいに、契約期限は定まっていない。
結論
それほど便利なものが充満してきたのに、人間は本当に幸福になったか、と言う事。
科学とは何か
地球が誕生して46億年、生命が生まれて38億年、人類の祖先が400万年、農耕を始めて1万年、人間が自分の未来を自由に語れるようになってまだ半世紀しか経っていない。
人間は動物の、いや生物の一種でしかなく、生命には始めと終わりがあり、いわば死亡率100%の生命体でしかない。時間的には100年なんて化学変化にも似た一瞬なんだろうな。ただ、どう変化するか判らない・・・諸行無常。
体感的には物理変化に見えるが、そろそろと近づいてくる未来は恐怖以外の何ものでもない。人は未知なるものに怯える。
東京外国語大学名誉教授岡田英弘の「この厄介な国、中国」を読んでいたら(この本は以前「妻も敵なり」という書名で出ていた)「儒教は科学だ」との記述があった。はて?、と思い続きを読むと「科学の究極の目的は未来予測」とあった。全ては未知なる明日を知る為の手段、だと。
初期仏教の流れを汲むといわれるテーラワーダ仏教のスマナサーラ師は「仏教は科学」と言っていた。現状を見つめ、未来を予測、それは死亡率100%の人間が与えられた人生を幸福に生きる為の教えなのかも知れない。未来は怖いけど、思い悩んで立ち止まってしまっては生きている価値が薄れてしまう。まっこと、この世に生を受けて、己の生き方に悶々としているなんてやはり人間は不思議な生き物ではある、な。
諸行無常の一瞬の生。背筋を伸ばし、風雪に耐え、一筋の愛に生きる。キザだが、そういう事なのかも知れない。
堀江裁判
堀江裁判の判決を聞いて裁判長の馬鹿さ加減に呆れた。堀江はユーザーの価値を創っていないし、粉飾決算と株価操作で株主と言うお金で夢を買っている人達の夢と信頼を裏切り膨大な損失を発生させている。堀江は所詮虚業家であり詐欺師でしかない。その本質を知らず時代の寵児と祭り上げたマスコミや政治家、そしてそれに乗った大衆の無知を笑うべきだろう。大馬鹿野郎! と叫びたいね。
この判決の甘さと日興コーデアル証券に対する日証の処置の不甲斐無さは日本の資本市場の信頼を無くし、嘲笑が静かに広がるはずだ。ハンターに気付かないカモは、ゲームにならないアホウドリでしかない。畑で大根を抜くように、獲りたい時に取れる。
ぶどう村の件も地元の反応がおかしい。
基本的には第三セクターとは言え株式会社であり法のルールに従わなければならない。第一は累積赤字が資本金を超えデフォルトが発生している。第二に金融機関からの借財が年商の2倍近くになり返済不能に陥っている。第三に在庫の品質、量、また不実記載があり通常の企業であれば数千万円に上る粉飾決算がある。
不思議なのは会社側が市役所の責任を追及し、市役所は官設民営の論理で会社側の責任を求めている。法的に会社経営陣の責任追及、特に粉飾決算と経営破綻(経営は結果論でしかない)について市税を投入した株主として損害を与えられた立場からの損害賠償責任の追及がなされていない。市民の立場として行動を起さない行政に対し訴訟を起しても不思議は無いのかも知れない。
法律に則った立場での話し合いがあり、小さなコミュニティとしての玉虫色の解決方法があるはずだろうと思う。
このままチキンレースが始まれば、第三セクターの社長のなり手がなくなり、今後新会社法による監査役の責任が重くなれば監査役の引き受けてもなくなる。
地域は様々な要因から寂れてしまう。
いつかどこかで
店を3軒ハシゴして只今帰宅。
最後の、行きつけの店でママが歌った「いつかどこかで」が頭の中をリフレーンしている。
勝新太郎の持ち歌で、過ぎ去った過去への想いを抑ききれない男のしみしみとした恋歌。曲全編に流れる切なさが心をかきむしる。
飲み仲間、と言うより敬愛する心の友だった竹田満さんが、時折しんみりと歌っていた。「狂った果実」や「別れの一本杉」を無理やり歌わせると、ちょっと哀しそうに、そしてチョット得意そうに歌う彼の横顔が蘇ってきて、目の前が滲んでくる。
3月20日は彼の誕生日。
逝ってしまって、もう何年になるのだろう。
寂しさだけが襲ってくる。
雪はもう止んだのかな。こんな冬の夜はどうしていいのかわからない。