聖ヶ鼻より妙高を望む
雲の中に、妙高の山が見える。
妙高は高校時代山岳部のホームグランドだった。
妙高、火打、焼山は何度登ったことか。
こんなこともあった。
夏休み前だったか、学校でクラス対抗の運動会があった。
最初「建築B組」は振るわずビリに近かった。
応援団の出番で、学校の倉庫からハシゴを持ち出し、ハシゴ乗りで鼓舞した。
血の気の多い、ていうかお調子者のクラスは盛り上がり、優勝した。
だけど、翌日の全校朝礼の時、500人の前で校長に名指しで怒られた。
「煮干し」(校長の綽名)奴、覚えていろ!
クラスに戻って、担任教師(笠原先生)に「頭に来たから山に行って来る!」
「おぉ、行って来い!」
今考えると、あの頃の先生もいい加減だった。
単独行は初めてだったが、テントから登山道具を入れ込んだキスリングは重かった。
火打の高谷の池にテントを張り、身軽なリュックで火打山から焼山の尾根で殺気を感じ引き返した。
間一髪とはこのことかも知れない。雷と土砂降り。
今年の芥川賞は「バリ山行」、神戸六甲山の単独行が題材。
2000メートル級の山の単独行がなんと楽しく、怖いモノか。
奴らには分かるまい、イヒヒヒヒ!
高田公園
ヤボ用で高田に行って来た。
高田は高校時代を過ごした懐かし過ぎる町だ。
行ってみれば感じるだろうが、この町は風の臭いまで違う。
高田の生活が始まったのは昭和33年(1968)
今知ったことだが、戦争が終わってまだ13年しか経っていない年だった。
高田連隊があった町らしく、生徒たちの気性も荒かった。
子供の頃から多少グレていた自分にとって高田工業のその気性の粗さが合っていた。
ゴリというアダ名の上級生はチェーンを振り回し、俺は短刀を忍ばせ通学した。
山岳部の先生は、テントを張り終わると「石塚、酒はどうした?」と催促する始末。
通学途上にあった下宿部屋は悪党共の巣窟と化し、一服して奴らは汽車に乗った。
クラスだけでなく、農業高校や能生水産校もめ事も、酒を飲みながら仲裁していた。
土方だか土豪だか訳わからない家に育つと変な子供が育ってくる。
3年生の時、菊間さんの家に転がり込み俺の転落にブレーキがかかった。
高田の風はいろいろなことを思い出させてくれる。