八石山埋蔵金物語
もう随分と昔の話になる。
そうだね、土方だった頃だからもう40年も前のことになるのかなぁ。
会社のガソリン・スタンドで「油を売っていた」ら大阪から来たという変な男と意気投合してしまった。
「何しに来たんだ?」 と俺の愛くるしい問いかけに、彼は無愛想に「宝探しよ!」とぬかしやがった。時はまさに「埋蔵金ブーム」の時代。
奴(やつ)の言うにはこうだ。
蒋介石が中国大陸を追われ台湾に逃げる時、妻の宋美麗の家から持ち出した金銀財宝を八石山に埋めたのだ、という。
八石山の埋蔵金 ? あの児玉誉士夫が運んだのだ? で、何故八石山に?
大東亜戦争で日本が負けた時、中国大陸に残された人達を日本に帰す指揮を執った「覆面の司令官」がいた。
その人のお陰で中国大陸からの引き揚げは満州よりはスムースだった、という。
その覆面の司令官と蒋介石との信頼が厚く、司令官のふるさとに埋めたんだよ、知らなかったのか、バァーカ !
この俺に向かって「バァーカ」とは何事だ、その場で首を絞めてやろうかと思ったが、財宝は800億だと言う。
何人か後を追ったが善根の御滝さんの当たりで見失ったという。
八石山の善根城跡に飯田貞固陸軍中将揮毫の碑がある。
小国八王子の人で近衛師団長を勤め昭和天皇の信頼が厚かったと聞く。
生年は山本五十六、東条英機と同じ明治17年。
蒋介石は高田連隊にいたことが有り、小千谷小粟田原にあった陸軍飛行場にも来たことがある、と言う話を聞いたことがある、と市の職員。
話の辻褄が合ってきたぞと喜んでいたら、財宝は見つかり御滝さんの川に2本の橋を寄付して帰ったという。やれやれ !
飯田貞固中将のことを調べてみたいがまだ謎が多い。
加納の清龍寺に中将のお墓がある。
子供の頃、教科書か何かで石川峠を越えて南城三余堂に通う話が載っていたのをかすかに覚えている。
八石は不思議な山だ。
涅槃仏のお姿から信仰を集めた山でもあったらしい。
「善根」という地名も尋常じゃない。
八石山は、また維新回天の長州中国毛利の故郷でもあり、好きなタイプじゃないけれど安倍総理も長州人だ。
八石山と縁の深い長州人脈が今も日本の政治を動かしている。
鯖石郷に流れる歴史の不思議さを感じる。
(柏崎日報 9/22 掲載予定原稿)
西郷どん、チェスト !
NHK大河ドラマ「西郷どん」に夢中になっている。
自分にとって幕末の主役は坂本龍馬であり、西郷さんや桂小五郎は脇役でしかなかった。
司馬遼太郎「竜馬がゆく」に沈殿していたのだろう。
アジア諸国が西欧列強に植民地化されて行く中で、日本の自主独立を願い、狂気のように駆け抜けていった若者達の熱気が伝わってくる。
もちろん史実とドラマは違うが、鈴木亮平の熱演に引きずり込まれ、手に汗を握り、時には涙ぐみながら見ている。いい歳こいてなんてこった!
林真理子が原作に込めた本当のテーマ「国とは何か」に対する思いだという。
幕末の志士達は黒船来襲の恐怖と闘いながら、この国の未来は自分達で決める、誇りを失ったら終りだと燃えていたのだろう。
自分の信念と命をこの国に捧げる ! いいね !
徳川も長期政権もやがて衰退して行く。
時代の激流の中で、組織が妙な安定と閉塞感に閉ざされて組織が衰退して行くのに一定の法則があるという。
裸の王様に誰も異議を挟まず、終にはかつて栄えた組織や地域は自滅して行く。
「沈黙は禁」だそうだ。
小賢しい屁理屈だけが横行する時代になって、人工知能が幅を効かせている。
効率性を求めるにはコンピュータが必要だが、所詮道具でしかない。
人工知能活用の旗振りをしていて怒られそうだけれど、AIが時代変革の起爆剤になれるわけではない。
時代を変えていくのは未来のないオールドテロリストと、未来のある若者の情熱という狂気しかない。
そして、世界も柏崎も激動する時代の変わり目で藻掻いている。
この時代は否応なしにグローバル化して行かざるを得ないのだろう。
しかし、トランプのクソジジイに好き勝手言わせておけば世界も柏崎もおかしくなる。
柏崎の未来のために何が大切なんだ? 課題は多すぎるが、今、行動を起こさなければ未来は腐ってしまう。
多くの有権者から夢を託されたリーダー達が、訳の判らない小会派に別れてブツブツ言い合っているのも理解できない。
もっと根性入れて、柏崎にしかない未来のために命がけで働いてくれっそ !
頼むぜよ! チェスト! 気張れ !
(柏崎日報 9月8日掲載分)
片貝の花火
小千谷市片貝町 浅原神社秋季大例祭には神が降りてくる。
重陽の節句、9月9・10日浅原神社に奉納する「片貝の花火」があるから当然のことなのだが、不老長寿を願い神と人間との饗宴が繰り広げられる。
多分、八百万の神が集った天の岩戸の宴もかくやと思われる。
片貝町の人達は古代人とラテン系との血が混じり合っているのか、神様も祭り囃子に浮かれ、完全に酔っ払って踊り出している、そんな祭りが8日の宵祭りから3日間も続くんです。
昔、片貝では各家で花火を造り、浅原神社秋季大例祭に奉納していたという。
今もその風習は変わらず、各町内で玉送り行事で御輿を引き回し、境内で「シャギリ」が行われ、お立ち台で奉納木遣りをうたい、花火を打ち上げる。
だから片貝の人達にとって花火は単なる花火ではない。
「結婚祝い」や「孫の誕生」、「親父の追善供養」なんてのもある。
花火番付を見ていると、町中の賑やかな話声が聞こえてくる。1年の喜びと悲しみを、それぞれに打ち上げる花火に込めている。
片貝の花火は神様に奉納した花火だから人間共には見えなくてもいいのだという。
雨の日に桟敷で傘を差して花火見たこともある。
「ズド-ン・・・バリ、バリ」の打ち上げの音が聞こえ、雲が少し赤く染まるとお立ち台は厄年や還暦の仲間達が「バンザイ! バンザイ!」と狂喜乱舞し、桟敷席からは「良かったぞ、おめでとう!」のかけ声が波を打つ。
晴れた年には浅原神社の裏山から桟敷席まで降ってくる、鳥肌の立ってくるような花火も、彼等には同じ奉納花火なのだ。
小千谷市の職員が目に涙を浮かべながら語ってくれたことがある。
戦争中、火薬統制令が厳しい中、本田善治さんは軍と直談判し、仲間と共に花火を上げ、思い残すことなく戦場に散っていったという。
あの職員の話が今も忘れられない。
本部前の桟敷席にいると花火師達が目を輝かせて飛び回っている。
どうにも我慢できなくなり、翌年花火師の手伝いをさせて貰った。
スターマインを任せられ、目の前で炸裂し続ける花火の筒を追いかけ、俺も完全に「片貝人」になりきり、狂った。
花火の起源は疫病や悪霊を大きな音で追い払う爆竹にあったのだろう。
火薬が発明され、やがて金属粉を混ぜることで鮮やかな色が出るようになった。
しかし俺には音楽まで要らない。
やはり花火は人々の祈りや感謝を故郷の空と神や祖霊に捧げる素朴な花火が一番美しいと想う。
片貝には、藍沢南城の父北瞑の朝陽館があり、学問と祭りの「文祭両道」大切にしている。
(柏崎日報 8月25日(土) 掲載分) 少し加筆しています。