介護用ベッド
夢を実現しようと思ったとき、大きな壁にぶつかる。
そこで諦めてしまうのか、挑戦して行くのか、分かれ目になる。
「立ちはだかる壁には理由がある。
我々がどれほど本気か照明するためだ」 7/21 「柏崎抄」
挑戦すれば失敗の山が出来る。それは「DNA」という記憶素子に書き込まれ、人間はそうやって生き延びてきたのだろう。
オレは75歳を過ぎた。
バイクは諦めたけれど、まだやりたいことは多い。
経年劣化が激しくなり、元々貧弱な記憶能力が極限に達している。何とかしなくてはならない。
本を読む量は多い法かも知れないが、残念ながら「メモを取る」習慣がなかった。ノートに細いペンシルでメモを取りながら本を開く。単純だが、今の夢だ。それは机の上でだ。
楽な姿勢で本が読みたくて、看護用ベッドに変えた。
些か自尊心は傷が付くが、近い未来「必需品」になりそうなので大枚を叩いた。女房の金だが・・・。
これがまた寝やすい。
これは優れものだね。
でも、本を読む前に寝てしまっている。
オレは何ものなのか?
様々事ありて夏が行く
16日には倅の第二子が生まれ、17日に鹿嶋まで孫の顔見に日帰り大人の休日切符。東京駅まで息子が送り迎えしてくれたので助かったけれど、ヘロヘロ。みんなの元気そうな顔が何よりのお土産。
そして今日は建設業時代の先輩のお通夜。97歳。
多くの現場を共にしたけれど、忘れられないのは石黒風張農道の時。谷底に資材を送る索道のアンカーがぶっ飛び、ウィンチを蒔いていた「サジン」目がけて埋めていた木が飛びかかり、それはウィンチ小屋の仮設柱に当たり、取りあえずOK。
しかし、索道に吊したコンクリートを入れた大きなバケツが落下、下の型枠の中に居た仲間の頭上に・・・幸運の女神は此所にもいてくれた。バケツは大きな音を立てて型枠の外側に・・・。
誰一人怪我をすることもなく、「いやー、たまげたのぉ」で事が済んだ。
女房は俺のことを「信心深い」と言うけれど、一瞬で命拾いを繰り返すと「誰かに見守られている」としか思えなくなる。
「人生なんてゴミだ!」と呟きながらも、誰かが見守っていてくれる人生は嬉しいものだ。人に感謝し、自分の幸運を縁ある人達にお裾分けしてやりたい。
後期高齢者になり、一丁前のことを言うようになったのかな?
言語と境界
「誰かが私に言ったのだ
世界は言葉で出来ていると」 山尾悠子
柴野毅実「言語と境界」こんな巻頭言で始まる。
柴野さんが「遺書」のつもりで書いた「自然科学的理解を超えて」との副題を付けたこの本は素晴らしい、と思う。
全部を読み通していないし、読んだとしても俺の理解を超えているのだろうし、人間が最も人間なのは「言葉」があるからだと考えているからだ。
「サピエンス全史」(これもまだ読み通していない)では、動物の中で、人類の中でホモ・サピエンスだけが唯一生き延びたその要因は「無駄話」が出来たからだ、言っていた。井戸端会議、際限もないお喋りがコミュニケーションのもと、言ってみれば外敵から身を守る情報交換が可能だったからだ、と俺は理解してしまった。
今も、意味不明な女達の会話には降参なのだが・・・。
「言葉」に戻る。
最近、続けていくつかの葬式に参列している。
以前から感じていることだが、仏式の葬式は「あれはなんじゃらほい!」だ。「お経」なるものは「音」であって「言葉」ではない。従って意味が理解できない。それが「有り難い」のかも知れないが、「坊主業界」はこのままでは絶滅する。
仏教は、絶ち難き悩みの中で、それでも生きなくてはならない仏の教えであり、救いで有ったはずだ、と思っていた。
しかし、「言葉」を捨てた仏教に、宗教としての存在価値は消滅する。
般若心経や修證義を、枕元に置くバイブルのように平易な文章にし、迷ったときに常に足下を照らす明かりにして欲しい。