介護用ベッド

2017年07月22日 風の戯言


 夢を実現しようと思ったとき、大きな壁にぶつかる。
 そこで諦めてしまうのか、挑戦して行くのか、分かれ目になる。

 「立ちはだかる壁には理由がある。
   我々がどれほど本気か照明するためだ」  7/21 「柏崎抄」

 挑戦すれば失敗の山が出来る。それは「DNA」という記憶素子に書き込まれ、人間はそうやって生き延びてきたのだろう。

 オレは75歳を過ぎた。
 バイクは諦めたけれど、まだやりたいことは多い。
 経年劣化が激しくなり、元々貧弱な記憶能力が極限に達している。何とかしなくてはならない。

 本を読む量は多い法かも知れないが、残念ながら「メモを取る」習慣がなかった。ノートに細いペンシルでメモを取りながら本を開く。単純だが、今の夢だ。それは机の上でだ。

 楽な姿勢で本が読みたくて、看護用ベッドに変えた。
 些か自尊心は傷が付くが、近い未来「必需品」になりそうなので大枚を叩いた。女房の金だが・・・。

 これがまた寝やすい。
 これは優れものだね。

 でも、本を読む前に寝てしまっている。

 オレは何ものなのか?

バイク免許断念

2017年07月20日 風の戯言


 「おーーい、オレ兄貴だよ、判る?」

 「・・・判ったから、もう少し寝かせてくれ・・・」

 そんな会話が聞こえてきそうな、二人。

 バイクの免許を断念した。
 75歳の誕生日までに取得しよう、と意気込んでいたけれど、転倒したバイクの起こし方、スタンドの建て方などでもう息切れしはじめ、バイクに跨がる練習し始めたら足が揚がらずギブアップ。こんな筈ではなかったけだけにガックリ!

 でも、残念だけど思い切りが出来た。

 バイバイ !

様々事ありて夏が行く

2017年07月19日 風の戯言


 いろいろ有り過ぎて、何から書いたらいいのか判らない一週間。

 16日には倅の第二子が生まれ、17日に鹿嶋まで孫の顔見に日帰り大人の休日切符。東京駅まで息子が送り迎えしてくれたので助かったけれど、ヘロヘロ。みんなの元気そうな顔が何よりのお土産。

 そして今日は建設業時代の先輩のお通夜。97歳。
 多くの現場を共にしたけれど、忘れられないのは石黒風張農道の時。谷底に資材を送る索道のアンカーがぶっ飛び、ウィンチを蒔いていた「サジン」目がけて埋めていた木が飛びかかり、それはウィンチ小屋の仮設柱に当たり、取りあえずOK。
 しかし、索道に吊したコンクリートを入れた大きなバケツが落下、下の型枠の中に居た仲間の頭上に・・・幸運の女神は此所にもいてくれた。バケツは大きな音を立てて型枠の外側に・・・。
 誰一人怪我をすることもなく、「いやー、たまげたのぉ」で事が済んだ。

 女房は俺のことを「信心深い」と言うけれど、一瞬で命拾いを繰り返すと「誰かに見守られている」としか思えなくなる。
 「人生なんてゴミだ!」と呟きながらも、誰かが見守っていてくれる人生は嬉しいものだ。人に感謝し、自分の幸運を縁ある人達にお裾分けしてやりたい。

 後期高齢者になり、一丁前のことを言うようになったのかな?

ベートーヴェン 「田園」

2017年07月16日 風の戯言


 雨降る田舎道を、ベートーベンの「田園」を聴きながら走っていると、懐かしく幸せな風景に包まれてしまう。
 雨に濡れた周りの木々達が命あるように、樹にも命はあるのだけれど、俺と一緒に耳を澄ませているような錯覚を覚える。

 加納など山の中だけど、八石のステーキを食べに行ったら、人家が何も見えない山の中での店構えは不思議な魅力があった。

 あぁ、まだこんな生活があったな、360度林に囲まれたの中には不思議なやすらぎがあった。

言語と境界

2017年07月10日 風の戯言


 「誰かが私に言ったのだ
   世界は言葉で出来ていると」   山尾悠子

 柴野毅実「言語と境界」こんな巻頭言で始まる。
 柴野さんが「遺書」のつもりで書いた「自然科学的理解を超えて」との副題を付けたこの本は素晴らしい、と思う。
 全部を読み通していないし、読んだとしても俺の理解を超えているのだろうし、人間が最も人間なのは「言葉」があるからだと考えているからだ。

 「サピエンス全史」(これもまだ読み通していない)では、動物の中で、人類の中でホモ・サピエンスだけが唯一生き延びたその要因は「無駄話」が出来たからだ、言っていた。井戸端会議、際限もないお喋りがコミュニケーションのもと、言ってみれば外敵から身を守る情報交換が可能だったからだ、と俺は理解してしまった。
 今も、意味不明な女達の会話には降参なのだが・・・。

 「言葉」に戻る。
 最近、続けていくつかの葬式に参列している。
 以前から感じていることだが、仏式の葬式は「あれはなんじゃらほい!」だ。「お経」なるものは「音」であって「言葉」ではない。従って意味が理解できない。それが「有り難い」のかも知れないが、「坊主業界」はこのままでは絶滅する。

 仏教は、絶ち難き悩みの中で、それでも生きなくてはならない仏の教えであり、救いで有ったはずだ、と思っていた。

 しかし、「言葉」を捨てた仏教に、宗教としての存在価値は消滅する。

 般若心経や修證義を、枕元に置くバイブルのように平易な文章にし、迷ったときに常に足下を照らす明かりにして欲しい。